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魔王は死にたがりの聖女を拾い、今日も溺愛で生かしにかかる  作者: 蒼月よる


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内と外から

 カインは地下への入口を見つけた。


 城塞の中央棟、奥まった場所にある鉄の扉。錠がかかっている。聖術の結界も施されている。カインは剣を一振りし、錠ごと扉を叩き斬った。結界が悲鳴のような光を放って消滅する。


 石の階段が下に続いている。空気が変わった。冷たい。そして——重い。石壁から湿気が染み出し、鉄錆と古い石灰の匂いが鼻を突いた。聖なる炉の気配が、下から這い上がってくる。足元の石段が微かに振動している。炉の鼓動だ。


 カインの足が——一瞬、止まった。


 この気配を——知っている。


 五百年前。この気配の中で——あの子が消えた。聖なる炉の炎に呑まれて。カインの手が届く前に。


 トラウマが——胸を締めつける。


 息が苦しい。視界が歪む。足が動かない。全身の血が冷たくなり、指先が痺れる。五百年前の炎の匂いが鼻腔に蘇り、耳の奥で初代聖女の声が反響した。「ごめんなさい」。あの声が——今でも、消えない。


 五百年間、この気配から逃げ続けてきた。炉に近づくたびに、あの日の記憶が蘇る。炎。叫び声。届かなかった手。「ごめんなさい」と微笑んだ聖女の顔。


「……っ」


 カインは歯を食いしばった。


 リーリエがいる。この下に。


 その一つの事実が——五百年のトラウマを押し退けた。完全にではない。身体は震えている。冷汗が背中を伝う。けれど——足は動いた。


 一段。一段。階段を降りていく。


 炉の気配が強くなる。圧力が増す。身体が重くなる。頭が痛い。五百年分の魔力が、炉の気配に呼応して暴れ出そうとしている。


 リーリエ。


 その名前を、心の中で繰り返した。一段ごとに。


 リーリエ。リーリエ。リーリエ。


 ——待っていろ。


 場面が変わる。


 レオンハルトは地下通路を進んでいた。


 鍵を握りしめ、暗い通路を歩く。壁の灯りは申し訳程度のもので、自分の足元すら怪しい。聖なる炉の気配が——身体を圧している。レオンハルトは聖騎士だが、炉の気配を直接感じるのは初めてだった。


 重い。


 この気配の中に、リーリエは何日も閉じ込められていた。聖女の紋章を持つ者なら、この気配は何倍にも強く感じるはずだ。命を吸い取られながら。


 レオンハルトの拳が——握りしめられた。


 通路の分岐点。左へ。記憶が正しければ——地下牢はこの先。


 足音が聞こえた。前方から。レオンハルトの足音ではない。重い、一定のリズムの足音。鎧ではない。ブーツの音。


 暗がりの向こうから——人影が現れた。


 黒い外套。黒い髪。深紅の瞳。


 カイン。


 レオンハルトは剣に手をかけた。反射的に。身体が勝手に動いた。聖騎士としての訓練が——「魔王」に対する反応を自動化していた。


 カインも足を止めた。剣を握る手に力がこもる。


 二人が——狭い地下通路で、向き合った。壁の紋章が青白く明滅し、二人の顔を交互に照らしている。通路に閉じ込められた空気が重く、二人の呼吸だけが音を立てていた。


 灯りは壁の紋章の微かな光だけ。薄暗い中で、互いの顔が浮かび上がっている。


「……お前は」


 カインが言った。低い声。警戒の声。


「聖騎士団長か」


「魔王、カイン」


 レオンハルトが答えた。


 沈黙。


 二人の間の空気が張り詰めた。一触即発。どちらかが剣を抜けば、この狭い通路で戦闘が始まる。


 レオンハルトが——剣から手を離した。


 カインの目が細くなった。


「何のつもりだ」


「聖女を助けに来た」


 レオンハルトが言った。声は落ち着いていた。けれどその言葉の裏に——長い葛藤の末に辿り着いた決意が、滲んでいた。


 カインはレオンハルトを見つめた。深紅の瞳が、相手の本心を測ろうとしている。


「教会の犬が——何を言っている」


「犬であることは否定しない。今日まで教会の命令に従い続けた。聖女を苦しめる制度を——知っていて、目を逸らしていた」


 レオンハルトの声が——低くなった。


「だが、もう目を逸らさない」


 カインの表情が——微かに変わった。拳を握りしめていた手の指が、ほんの少しだけ緩んだ。警戒が薄れたわけではない。けれど——何かを感じ取ったように。レオンハルトの目にあるのは、策略ではなかった。苦悩の末に辿り着いた、剥き出しの誠意だった。


「地下牢の鍵は持っている。術式の封印を破る力は俺にはないが——それはあなたの方が得意だろう」


 レオンハルトが鍵を見せた。


 カインが——鍵を見た。レオンハルトの目を見た。


「……罠ではないと、どう信じろという」


「信じなくていい。ただ——」


 レオンハルトは一拍置いた。


「聖女が笑っている場所を壊す気は——俺にはない」


 その言葉に——カインの拳が、緩んだ。


 完全に信じたわけではないだろう。けれど——今はリーリエを救うことが最優先だ。騎士団長が味方であれ罠であれ、リーリエのもとに辿り着く速度が上がるなら。


「先導しろ」


 カインが言った。短い命令。けれどその声に——レオンハルトを「味方」と認めた響きがあった。完全な信頼ではない。けれど——今この瞬間の同盟者として。


 レオンハルトが頷き、前に出た。鍵を握りしめて、暗い通路を進む。


 カインがその背中に続いた。


 外からカイン。内からレオンハルト。


 知らない同盟が——一つの扉に向かって、歩き出した。


 カインの外套の裾とレオンハルトの鎧が、通路の壁に影を落としていた。黒い影と銀の影。五百年の時を隔てた二つの影が、同じ壁に並んでいる。


 カインの足が階段を降りるたびに、トラウマが頭をもたげた。五百年前の記憶。炉の光。初代聖女の微笑み。「行かないで」と叫んだ声。届かなかった手。


 首を振った。今は——過去に囚われている場合ではない。


 リーリエがいる。生きている。まだ間に合う。


 石段を踏む足に力を込めた。靴底が湿った石を踏むたびに、水の音がする。一段。また一段。炉の気配が強くなる。身体の奥が軋む。聖なる炉の余波を受けた身体が、炉に近づくことで共鳴を起こしている。頭痛がする。視界が歪む。


 それでも——止まらない。


 五百年前に止まった。間に合わなかった。あの後悔が——五百年分の重さでカインの肩に乗っている。


 今度は——間に合わせる。


 地下の通路が開けた。広い空間。壁一面の紋章。青白い光。空気が冷たく澄み切っている。聖術の灯りが壁に沿って脈動し、まるで巨大な心臓の内部にいるような感覚を覚えた。そして——奥に、扉がある。扉の隙間から白銀の光が漏れていた。リーリエの紋章の光だ。カインの足が——走り出していた。


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