団長の決断
レオンハルトは走っていた。
城塞の回廊を。鎧の足音が石の床に響く。すれ違う兵士たちが「団長殿」と敬礼するが、レオンハルトは立ち止まらなかった。
頭の中で——嵐が吹いている。
初代聖騎士の剣。
部下からの報告が、繰り返し脳裏を叩く。「魔王が初代聖騎士の剣技を使っている」「教範の原型だ」「型を創った者の動きだ」。
初代聖騎士カインが——魔王カインなのだとすれば。
教会の歴史が——全て、嘘だったことになる。
「初代聖騎士は堕落して魔に堕ちた」——嘘。「魔王は人類の敵」——嘘。「聖女を守り、世界を支えるのが教会の使命」——嘘。
聖女を炉に送り込み、命を燃料にする制度を維持しているのが教会だ。その制度に異を唱えた初代聖騎士を追放し、「魔王」の汚名を着せた。五百年間——その嘘の上に教会は建っている。
レオンハルトは知っていた。聖女制度の真実を。リーリエの命が炉の燃料にされていることを。それを知ったのは——リーリエを「救出」する任務に就いたときだった。大司教がレオンハルトに真実を明かした。「聖女を連れ戻さなければ、結界が崩壊し、世界が終わる」と。
レオンハルトは——従った。
世界のためだと思ったからだ。一人の犠牲で万人が救われるなら、それは必要な犠牲だと。大司教の論理に頷き、命令に従い、リーリエの奪還に協力した。
けれど——ずっと、胸の奥で何かが引っかかっていた。
リーリエの目。
覚醒直後のリーリエの護衛任務に就いたとき——リーリエが一瞬だけ見せた目。「疲れた」と言うには若すぎる少女の、虚ろな目。あの目が——忘れられなかった。
あれは——守るべき者の目だった。犠牲にしていい者の目ではなかった。
レオンハルトの足が——止まった。
回廊の窓から、中庭が見える。カインが通り過ぎた後の中庭。倒れた兵士たち。砕けた壁。けれど——死者はいない。一人も。
魔王は——殺さなかった。
「聖女を守ることが、聖騎士の誓いだ」
レオンハルトが呟いた。
「——だが、聖女を苦しめる仕組みを守ることが、騎士の務めか?」
その問いに——答えが、出た。
長い間、出なかった答え。組織への忠誠と個人の良心の間で揺れ続けた答え。
出た。
レオンハルトは天を仰いだ。城塞の高い天井。ステンドグラスから差し込む色とりどりの光。聖者の姿が描かれたガラスが、レオンハルトの顔に色を落とす。
「俺は聖騎士だ。聖女を守ると誓った」
声が——震えていなかった。
「ならば——聖女を殺す制度ではなく、聖女そのものを守る」
レオンハルトは剣帯を締め直した。
「教会を裏切ることになる。だが——これが、俺の正義だ」
レオンハルトの頭に——リーリエの声が蘇った。
捕囚される前。レオンハルトが教会の使者としてリーリエに会ったとき。リーリエが言った言葉。
「レオンハルト団長。あなたのせいではありません。あなたは——命令に従っただけです」
あの言葉がどれだけ——レオンハルトの胸を抉ったか。命令に従って聖女を連れ戻そうとしている男に、聖女自身が「あなたのせいではない」と言った。赦しの言葉。あるいは——諦めの言葉。
あの少女は——自分を犠牲にすることに慣れすぎていた。
もう——許さない。
あの少女を犠牲にする制度を、これ以上許さない。
レオンハルトは腰の鍵束を確認した。聖騎士団長として、城塞内の主要区画の鍵を持っている。地下牢の鍵も——ある。
「聖女の安否確認をする」
レオンハルトは声に出して言った。名目。もし誰かに問われたときの名目。聖騎士団長が聖女の安否を確認するのは——当然の職務だ。
地下への階段に向かった。
回廊を曲がり、守衛所を通り過ぎる。守衛が「団長殿」と敬礼する。レオンハルトは頷いて通り過ぎた。まだ——裏切りは露見していない。
地下への階段を降りる。一段ごとに空気が冷たくなる。壁の灯りが暗くなる。鎧の中で肌が粟立つのがわかった。聖なる炉の気配が、鎧を透して直接身体に触れてくる。普通の人間であるレオンハルトにさえ、これほどの重圧。聖女の紋章を持つリーリエには、これが何倍にもなって降りかかっているはずだった。そして——足元から、何か巨大なものの気配が伝わってくる。
聖なる炉の気配。レオンハルトにもわかるほどの、圧倒的な存在感。
この下に——リーリエがいる。
この気配の中で——何日も、一人で。
レオンハルトの歩みが速くなった。
鍵を取り出した。地下牢の鍵。手が——震えている。
恐怖ではない。
怒りだ。喉の奥が焼けるような、熱い怒り。聖騎士として剣を振るってきた手が——今は、鍵を回すために震えている。
こんな場所に少女を閉じ込めている——この仕組みに対する、純粋な怒り。炉の気配が足元から這い上がり、レオンハルトの鎧の隙間に冷気を送り込む。この重圧の中に、十七歳の少女が閉じ込められていた。
レオンハルトは地下の通路を進んだ。暗い通路。壁に紋章が刻まれている。聖女の力を抑制する結界の紋章。
通路の奥に——扉があった。
リーリエの部屋の前に、レオンハルトは立った。
レオンハルトの手が震えていた。鍵が錠に触れる金属音が、静かな通路に響いた。冷たい汗が背中を伝う。けれど指は止まらなかった。
鍵を——扉の錠に差し込んだ。
外からはカインが。内からはレオンハルトが。
二人の「聖女を守る」意志が——一つの扉の前に、集まろうとしていた。
レオンハルトの足音が地下に響く。冷たい石の壁。聖術の灯りが青白く光る。空気が重い。聖なる炉の気配が、肌を刺すように伝わってくる。
これが——教会が隠してきた場所。聖女の命を燃やす場所。聖騎士として、この場所を知らなかったことが——恥ずかしかった。知るべきだった。もっと早く。もっと深く。
鍵を握る手に力が入った。この鍵は、聖騎士団長だけが持つ非常用の鍵だ。全ての扉を開けられる。教会がレオンハルトに与えた権限が——今、教会を裏切るために使われようとしている。
皮肉だった。けれど——正しい使い方だと思った。レオンハルトは唇を引き結び、鍵を握り直した。金属の冷たさが掌を刺す。この冷たさを——覚えておこう。自分が何のために教会に背を向けたか、忘れないように。
地下の奥に、扉が見えた。紋章が刻まれた、重い鉄の扉。紋章の隙間から、微かな白銀の光が漏れている。聖女の紋章の光だ。まだ——光っている。まだ生きている。
その向こうに——聖女がいる。レオンハルトの足が速まった。




