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魔王は死にたがりの聖女を拾い、今日も溺愛で生かしにかかる  作者: 蒼月よる


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大司教の余裕

 大司教の執務室は、城塞の最上階にあった。


 窓から見下ろせば、城塞の全体が一望できる。中庭を走り回る兵士たち、砕けた門、回廊に倒れた聖騎士たち——全てが、小さな駒のように見える。


 グレゴリウス・ヴァン・オルデンは、その窓の前に立っていた。白い法衣の裾が床に流れている。蝋燭の灯りが顔の片側だけを照らし、もう片側は影に沈んでいた。窓から冬の冷気が流れ込み、法衣の裾を微かに揺らしている。


「大司教様。魔王カインが城塞内に侵入しました。第一、第二防衛線が突破されています」


 部下の報告に、グレゴリウスは振り返りもしなかった。


「知っています」


「現在、第三防衛線で——」


「そこも破られるでしょう」


 グレゴリウスが微笑んだ。窓の外を見たまま。穏やかな笑み。


「あの男を止められる戦力は、この城塞にはありません。聖騎士団の精鋭でも——五百年の修練を重ねた者には及びません」


「では、どう——」


「来ると思っていました」


 グレゴリウスが振り返った。灰色の瞳が、いつもの温度の低い光を湛えている。


「あの男は、聖女のためなら何でもする。五百年前もそうでした。そして今も——同じです」


 部下が口を閉じた。大司教の口から「五百年前」という言葉が出たことに、わずかな戸惑いを見せたが、問い返す勇気はなかった。


 グレゴリウスは机に歩み寄り、引き出しを開けた。中から古い封筒を取り出し——しかし今は開けなかった。机の上に置き、指先で軽く叩いた。


「予定通り進めなさい」


「……はい。予定とは?」


「魔王が聖女のもとに辿り着くのを——妨げないでください」


 部下の目が見開かれた。


「妨げない——?」


「これ以上、兵を無駄にする必要はありません。魔王は聖女を連れて出るでしょう。それは構いません」


「しかし大司教様、聖女を取り戻されては——」


「聖女が教会にいてもいなくても、結界の消耗は変わりません。あの聖女が炉に戻ることを拒んだ以上、強制的に投入するには別の手順が必要です。時間がかかる。ならば——今は、渡しましょう」


 グレゴリウスの指が、机の上の封筒を叩いた。


「渡した上で——別の手を打ちます。この戦いは、剣ではなく情報で決まります」


 部下は大司教の意図を理解できていなかった。けれど命令には従う。「畏まりました」と頭を下げて、退出した。扉が閉まる音が静かに響き、足音が廊下の奥に消えていった。


 一人になった執務室で、グレゴリウスは窓辺に戻った。


 城塞の中を、一つの黒い影が進んでいく。カイン。立ちはだかる者を倒し、壁を砕き、扉を蹴り開け——一直線に、地下を目指している。


「やはりあなたは——」


 グレゴリウスの細い指が窓枠を撫でた。冷たいガラスの向こうで、カインの黒い影が城塞の回廊を突き進んでいく。その動きは正確で、無駄がなく、美しくすらあった。五百年の歳月が磨き上げた、人の域を超えた所作。


 グレゴリウスが呟いた。


「変わりませんね。五百年前と。聖女のためなら、世界を敵に回す」


 蝋燭の炎が揺れ、グレゴリウスの影が壁で大きく揺れた。灰色の瞳に、複雑な光が宿った。軽蔑ではない。感嘆でもない。もっと深い——長い時間をかけて熟成された、何かへの理解。


「その一途さが——五百年前に聖女を失った原因だったというのに」


 グレゴリウスは封筒から手を離した。封筒の角が蝋燭の灯りに照らされ、古い羊皮紙の色が浮かび上がった。五百年分の嘘が、この薄い紙の中に凝縮されている。今はまだ使わない。カインが聖女を連れ出した後に——使う。


 それが、最も効果的なタイミングだから。グレゴリウスは微笑んだ。蝋燭の炎が揺れ、灰色の瞳に橙色の光が映った。その光は温かく見えたが——目の奥は凍りついていた。


 場面が変わる。


 地下。


 リーリエは目を閉じていた。石壁の冷たさが背中を通して骨にまで沁みている。指先の感覚がほとんどない。紋章だけが熱い。身体の消耗が進んでいる。紋章の脈動が速くなっている。意識が朦朧としかけている。


 炉の気配が——変わらず足元に横たわっている。飢えた獣のように。けれどリーリエは屈しなかった。昨日、「帰りたい」と願った。その願いを——まだ握りしめている。


 遠くで——振動が伝わってきた。


 地下室の壁が、微かに揺れた。


 砂が天井から落ちてくる。細かい粒が髪に降りかかり、頬を掠めた。


 何かが——近づいている。壁の向こうで、何かが動いている。衝撃波が壁を伝わり、石が軋む音がする。


 遠くで鐘が鳴っている。悲鳴が聞こえる。金属がぶつかる音。剣戟の音。


 リーリエの紋章が——脈打った。いつもの炉への反応ではない。別の何かに反応している。


 地下室の空気が——揺れた。


 城塞の上で、誰かが暴れている。壁を伝わる振動が強くなっている。近づいてくる。防衛線を突破している。壁を砕き、扉を蹴破り、一直線にこちらに向かってきている。その気配には迷いがない。ひたすらに、まっすぐに、地下を目指している。


 リーリエの胸に——温かいものが広がった。


 知っている。この気配を知っている。


 紋章が反応しているのは炉ではない。カインの魔力だ。カインが近くにいる。カインが——来た。


「……カインさん」


 唇が動いた。声はほとんど出なかった。喉が渇き切っていた。けれど名前を呼ぶだけで——胸の中の氷が、また一つ溶けた。


 リーリエの目から、涙がこぼれた。


 声が震えた。身体は動かない。力が残っていない。けれど——涙だけは止まらなかった。


「来てくれた」


 来てくれた。


 一人で。


 あの人は——いつもそうだ。一人で来る。一人で戦う。一人で全部背負う。


 嬉しい。嬉しくて——心配で——また泣いてしまう。


 リーリエは涙を拭こうとして、指に力が入らないことに気づいた。身体がもう限界に近い。炉の消耗が——ここまで進んでいた。


 けれど——心だけは、温かかった。


 カインが来た。城塞が揺れるたびに、紋章が脈打つ。カインの魔力が近づいている。階段を降りてくる。一歩ずつ。


 大司教の論理は完璧だった。反論はできなかった。けれど——カインが来たこと。門を砕いて、一人で来たこと。それは論理ではなく——意志だ。


 リーリエの目に涙が浮かんだ。今度は悲しみの涙ではなかった。温かい涙だった。胸の奥から込み上げてくる、安堵と喜びの混じった熱。


 だから——もう少しだけ、耐えられる。身体は限界に近い。けれど心は——折れていない。いや——耐えるだけじゃない。リーリエは紋章に手を当て、声に耳を澄ませた。答えは——ここにあるはずだ。


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