炉の誘惑
二日目の朝——だと思う。
地下室には時計がない。紋章の脈動の変化で夜と昼を推し量っているだけだ。身体の消耗は、夜を越えてさらに進んでいた。
指先が白い。
爪の色が淡くなっている。血の巡りが悪い。炉に命を吸われ続けている証拠だ。視界の端が霞む。立ち上がろうとして、膝が笑った。紋章の拘束術式は昨夜のうちに効力が薄れたらしく、身体は動かせるようになっていた。けれど立ち上がる体力が——残っていなかった。
リーリエは壁にもたれたまま、天井を見つめた。
紋章が脈動する。一定のリズムで。心臓のように。いや——炉のリズムだ。リーリエの心臓が炉に同期し始めている。命が——炉の一部になりかけている。
温かい。
不思議なことに——身体の冷えとは裏腹に、紋章から広がる温もりがあった。炉の温もり。命を燃やす炎の温かさ。それは——心地よかった。
ここに身を委ねれば——楽になる。
その思考が、ふいに浮かんだ。
楽になる。痛みが消える。寒さが消える。全ての苦しみが消える。炉に還れば——何もかもが終わる。世界は守られ、リーリエは「安らぎ」を得る。
大司教の言葉が蘇った。
「炉にお戻りになれば、苦しみは終わります」
嘘ではない。本当に、苦しみは終わるだろう。命ごと。
炉の温もりが——身体を包んでいく。肌の表面が痺れるような感覚。まるで温かい水の中に沈んでいくような。意識の輪郭が溶けていく。紋章の光が強くなる。足元から、見えない手が伸びてくるような感覚。引きずり込まれる。炉が——リーリエを呼んでいる。
「……戻ればいい」
声が聞こえた。炉の声。歴代聖女の声ではない。もっと原始的な、炉そのものの「引力」。意思というよりは本能。飢えた炎が燃料を求める、ただそれだけの引力。
「戻ればいい。苦しみは終わる。世界は救われる。あなたは——永遠に、炉の一部になる」
永遠に。
リーリエの意識が——揺らいだ。
疲れた。身体が重い。指先が冷たい。視界が霞む。炉の温もりが、こんなにも心地よい。身を委ねれば、もう何も考えなくていい。苦しまなくていい。怖がらなくていい。
死にたい——とは、思わなかった。
けれど——楽になりたいとは、思った。
それは——かつてのリーリエの感覚に似ていた。崖から身を投げたときの、あの穏やかな諦め。積極的に死にたいのではなく、ただ——疲れたのだ。もういいのだ。
炉の温もりが、さらに強くなった。紋章の光が部屋全体を白く染める。リーリエの身体が軽くなっていく。浮き上がるような感覚。心地よい。
——違う。
声が聞こえた。
炉の声ではない。リーリエ自身の声。心の奥底から——。
違う。
リーリエは歯を食いしばった。奥歯が軋む音が、頭蓋の中に響いた。痛みが意識を引き戻す。紋章の白い光の中に、別の色が混じった。赤い光。カインの護符の——いや、護符はもう手元にない。けれど記憶の中の赤い光が、白い光を押し戻した。
違う。楽になりたいのではない。帰りたいのだ。
帰る場所がある。
魔王城の食卓。マリカのスープ。カインの不器用なお茶。あの茶は——お世辞にも美味しくない。毎回少し苦くて、温度がぬるい。けれどカインが淹れてくれるから、飲む。カインが「味はともかく、身体は温まるだろう」と言い訳する顔を見るのが——好きだ。
好き。
その言葉が——浮かんだ。胸の奥が熱くなった。炉の熱さとは違う。もっと柔らかくて、もっと切実な熱。名前のつけられない感情が、凍りかけた心を内側から溶かしていく。
まだ自分の感情に名前をつけることはできない。けれど——あの人が淹れたお茶を、もう一度飲みたい。
「……違う」
リーリエが声に出した。
「あそこには——帰りたい場所がある」
炉の温もりが——退いた。ほんの少し。リーリエの意志が、炉の引力に抗っている。
カインの声が——蘇った。
「お前が生きていればそれでいい」
何気なく言われた言葉だった。何でもないときに、何でもない顔で。けれどあの声の奥には——五百年の重みがあった。カインがどれだけの喪失を経験して、あの言葉に辿り着いたか。
生きていればいい。
それだけでいい。
リーリエは両手を握りしめた。指先が白い。力が入らない。けれど——握った。
「私は——帰る。あの場所に」
紋章の光が——変わった。炉に引きずられる白い光ではなく、リーリエ自身の意志に呼応する、微かに青みを帯びた光。
炉が——唸った。
足元から伝わる振動が不満げに震える。燃料が逃げようとしている。炉は許さない。結界を維持するためには、聖女の命が必要だ。
けれどリーリエは握りしめた手を離さなかった。
帰りたい。
あの頃に芽生えた「もう少しだけ、ここにいたい」は——「あの場所に帰りたい」に変わっていた。受動的な「ここにいたい」から、能動的な「帰りたい」へ。
炉の誘惑は退けた。
しかし身体の消耗は止まらない。紋章は脈動し続け、命は少しずつ吸い取られている。炉に近すぎる。このまま何日もここにいれば——リーリエの身体は限界を迎える。
帰りたい。
その願いが——届くかどうか。
リーリエは壁にもたれ、目を閉じた。背中に石壁の冷たさが伝わる。けれど紋章の光が微かに身体を温めている。自分自身の意志が、熱を生み出しているかのように。
カインの護符は魔王城にある。呼ぶことはできない。自力で逃げる体力もない。
けれど——信じている。
カインは来る。あの人は——必ず来る。
だから——それまで、耐える。
炉の飢餓に。身体の消耗に。「楽になりたい」という誘惑に。
全てに——耐える。
帰るために。
目を閉じると——魔王城の食卓が見えた。マリカのスープ。リュカのパスタ。フィルが飾ってくれた花。ヴェルナーが注いでくれた紅茶。そしてカインが黙って差し出す、蜂蜜入りのミルク。
あの食卓に——帰りたい。
身体は消耗している。指先の感覚が鈍い。視界が時折霞む。けれど——意識ははっきりしている。声も聞こえる。歴代聖女たちの声が。炉の脈動が。
この声の中に——「方法」がある。夢の中で聞いた声が言っていた。「方法がある」と。その方法が何かは、まだわからない。けれど——ここにいる今なら、見つけられるかもしれない。
炉に近いということは——危険であると同時に、チャンスでもある。身体は消耗し続けている。指先の感覚がさらに鈍くなっている。けれど意識は——研ぎ澄まされていく。
リーリエは壁にもたれたまま、紋章に意識を集中した。声の中に——答えを探して。




