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魔王は死にたがりの聖女を拾い、今日も溺愛で生かしにかかる  作者: 蒼月よる


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拒否

 扉が開いた。


 光が——差し込んだ。紋章の灯りしかなかった地下室に、廊下の灯りが侵入する。リーリエは目を細めた。暗闇に慣れた目には、その光すら眩しかった。光と一緒に、没薬と蝋燭の匂いが流れ込んできた。教会の匂い。身体が強張る。


 入ってきたのは——大司教だった。


 グレゴリウス・ヴァン・オルデン。白髪交じりの灰色の髪を後ろに撫でつけ、白金の法衣を纏っている。胸の大司教の紋章が、廊下の光を受けて微かに輝いた。


 穏やかな笑みを浮かべていた。


 慈愛に満ちた、信徒の前で見せる顔。目だけが——笑っていない。


 リーリエは壁に背を預けたまま、大司教を見上げた。身体は動かない。紋章の拘束術式は依然として有効で、立ち上がることもできなかった。けれど首を動かすことはできる。視線を向けることはできる。


「聖女様」


 大司教が穏やかに言った。


「お身体の具合はいかがですか。地下は冷えるでしょう。申し訳ありません。もう少し良い部屋を用意すべきでしたね」


 丁寧な言葉遣い。気遣いのある態度。知らない者が見れば、心から聖女を案じる聖職者に見えるだろう。


 リーリエは答えなかった。


 大司教が部屋に入り、リーリエの正面に立った。見下ろす形になる。リーリエが座り込み、大司教が立っている。力関係が、そのまま物理的な位置に表れている。


「お辛いでしょう」


 大司教が言った。声が——少し柔らかくなった。


「炉に近いのです。身体が消耗するのは当然のこと。聖女の紋章は炉に呼応しますから。ここにいるだけで——命が削られていく」


 知っている。リーリエの身体が、今まさにそれを体験していた。紋章が脈動するたびに、身体から力が抜けていく。指先が冷たく、視界の端が霞む。


「けれど——安心してください。炉にお戻りになれば、苦しみは終わります」


 大司教が膝をついた。リーリエと同じ高さに目線を合わせた。


「聖女としての安らぎを——」


「安らぎ」


 リーリエが声を出した。大司教の言葉を繰り返した。


「安らぎ、ですか」


「ええ。炉の中では、もう痛みを感じません。身体の苦痛から解放されます。安らかに——世界を支えることができます」


 大司教の声は、どこまでも穏やかだった。


 嘘ではないのかもしれない。炉に命を捧げれば、身体の痛みは消えるだろう。命そのものが消えるのだから。けれど大司教の言う「安らぎ」は——「死」の言い換えだ。「苦痛からの解放」は「存在の消滅」の美化だ。


 かつてのリーリエなら——受け入れたかもしれない。


 二年前のリーリエなら。崖から身を投げた日のリーリエなら。「疲れた」「もういい」としか思えなかったリーリエなら。


 「安らぎ」と聞いて、「それもいいかもしれない」と思ったかもしれない。


 今は——違う。


 リーリエの脳裏に浮かんだのは、魔王城の朝の食卓だった。カインが不器用に淹れたお茶。マリカの温かいスープ。フィルの無邪気な笑顔。リュカの軽口。ヴェルナーの穏やかな「おはようございます」。


 あの食卓に——空席ができる。


 リーリエの席が。


 二度と——埋まらない。


 カインは——どうなるのだろう。リーリエがいなくなったら。五百年前に聖女を失った男が、また聖女を失ったら。あの人は——。


 リーリエは大司教の目を見た。


 灰色の瞳。冷静で、感情を読ませない目。この目が——何人もの聖女を炉に送ってきた。慈愛の仮面の下で、「資源」として計算してきた。


 リーリエは身体を起こした。腕が重い。鉛を流し込まれたように。石壁から背中を離すだけで、全身の筋肉が悲鳴を上げた。


 紋章の拘束が全身を縛っている。腕が重い。脚が動かない。立ち上がることすらできない。けれど——背筋を伸ばすことはできた。壁から背中を離し、座ったままで、大司教を真っ直ぐに見据えた。


 声は震えていた。身体も震えていた。紋章の拘束と、炉の消耗と、恐怖と——それでも。


 目だけは——揺らがなかった。


「もう、自分を燃料にはさせません」


 言った。


 声は小さかった。囁きに近かった。けれど一語一語が、明瞭だった。


 もう。自分を。燃料には。させません。


 リーリエの胸の紋章が——光った。白銀の光が部屋を一瞬だけ照らした。リーリエの意志に呼応するかのように。


 大司教の微笑みが——消えた。


 一瞬だけ。ほんの一瞬。灰色の瞳に何かが揺れた。驚き——ではない。もっと深い、もっと複雑な何か。


 すぐに笑みが戻った。穏やかな、慈愛に満ちた笑み。


「……そうですか。残念です」


 大司教が立ち上がった。法衣の裾を払い、背を向けた。


 扉に向かいながら——独り言のように呟いた。


「あなたが断っても、結界は待ってくれませんよ」


 脅しではなかった。事実だった。リーリエが炉に戻らなければ、結界は弱まり続ける。災厄の侵入は増え、人が死ぬ。時間は——限られている。


 扉が閉まった。


 鍵が回る音。


 大司教の足音が遠ざかる。


 リーリエは——一人になった。


 身体が震えていた。紋章の拘束の中で、全身が小刻みに震えていた。恐怖と緊張と、消耗した身体の限界と。


 けれど——言えた。


 言えた。


「もう、自分を燃料にはさせません」と。


 かつて崖から身を投げた少女が——今日、自分の命を守ることを選んだ。


 死にたがりだった少女が——拒否する者になった。


 リーリエは膝を抱え直した。身体は震え続けている。涙が頬を伝った。怖い。炉の気配が足元から這い上がってくる。身体の消耗が止まらない。大司教の言葉が正しい——時間は限られている。


 けれど——。


 紋章が、微かに光っていた。リーリエの意志に応えるように。


 その光は小さかった。けれど——暗い地下室の中で、確かに灯っていた。


 大司教の足音が完全に消えた。法衣が石畳を擦る音も遠ざかり、鍵が回る金属音だけが残響した。


 大司教が去った後の沈黙が、重く部屋を満たしている。けれどその沈黙は——以前のような「諦め」の沈黙ではなかった。


 考えている。戦っている。言葉という武器で、論理という戦場で。


 大司教は完璧な論理を持っている。「一人の命で万人を」。反論は難しい。正面からぶつかれば、押し切られる。


 だから——正面からぶつからない。


 カインが言っていた。「教会軍は士気で動く軍だ。士気を折れば瓦解する」。戦略会議で聞いた言葉だ。あのとき——自分にできることは何もないと思っていた。けれど今なら——わかる。


 大司教の論理にも、士気に相当するものがあるはずだ。それを見つけること。それが——リーリエの戦いだ。


 紋章の光が——少しだけ、強くなった。


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