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魔王は死にたがりの聖女を拾い、今日も溺愛で生かしにかかる  作者: 蒼月よる


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空の城

 剣が空を裂いた。


 カインの一太刀が災厄の獣を両断し、黒い霧が飛散した。南の前線。辺境の村を襲った災厄の群れとの戦闘。カインは三時間前からこの場所で戦い続けていた。


 獣の数が多い。結界の穴が広がっているせいだ。次から次へと這い出てくる。黒い靄のような身体。赤い眼。理性のない破壊衝動だけで動く災厄の獣。村人はすでに避難させた。残っているのはカインと、魔王城から同行した数名の兵だけ。


 斬った。斬った。斬った。


 剣を振るうたびに、獣が消える。カインの剣技は圧倒的だった。五百年の修練が凝縮された一振り一振りが、災厄を塵に変えていく。


 しかし——焦りがあった。


 この災厄の出現は、タイミングが悪すぎる。教会との緊張が高まっている今、わざわざカインが前線に出なければならない規模の災厄。偶然とは思えない。


 嫌な予感がある。


 鉄の匂いが風に混じっていた。黒い霧の残滓が地面に漂い、獣の消えた跡に焦げた草の匂いが立ち上っている。


「カイン様!」


 背後から声がした。振り返ると、魔王城の兵士が一人、馬を走らせてきた。息を切らしている。顔が——青い。


「どうした」


「城から——緊急の伝令です。リーリエ様が——」


 兵士の声が震えた。


「教会の精鋭に——攫われました」


 世界が、止まった。


 カインの手から——剣が落ちかけた。五百年間、どんな戦場でも剣を落としたことはなかった。けれど今——指が、一瞬だけ力を失った。


 攫われた。


 リーリエが。


 教会に。


 世界の色が変わった。カインの深紅の目に金色の光が混じり、足元の地面にひびが走った。空気の温度が一瞬で下がったように感じた。


 カインの全身から——何かが溢れ出した。怒気。殺気。その境界が曖昧な、純粋な暴力の気配。空気が震えた。周囲の兵士たちが一歩、二歩と後ずさった。息ができない。この男の発する圧が、物理的に空気を重くしている。


「いつだ」


「一時間前です。城壁を聖術で破壊し——紋章の拘束術式でリーリエ様を——」


「護符は」


「ベッドの上に残されていました。リーリエ様は——使えなかったようです」


 護符。カインが渡した護符。握れば居場所が伝わるはずだった。それすら——使えなかった。紋章を制御する術式で身体を縛られて、指一本動かせなかったのだろう。


 カインの拳が握られた。


 渡しておいて——守れなかった。


 また——守れなかった。


 あの日と同じだ。五百年前のあの日。目の前で聖女が連れ去られ、炉に——。


 違う。


 カインは首を振った。今は違う。あの日とは違う。あの日は間に合わなかった。今は——まだ間に合う。


「前線は任せた」


 カインが兵士たちに告げた。声は低く、静かだった。怒鳴るのではない。叫ぶのでもない。ただ——感情が全て凍りつくほどの、静かな怒り。


「カイン様、お一人では——」


「黙れ」


 一言で、兵士が口を閉じた。


 カインは北に向かって走り出した。魔王城へ。まずリーリエの部屋を確認する。痕跡を辿る。教会の拠点を特定する。


 走りながら——歯を食いしばった。


 大司教の計略だ。カインを南の前線に引きつけ、城の守りが薄くなったところを突いた。災厄の出現すら——仕組まれていたのかもしれない。教会には災厄を誘引する術がある。古い術式だが、大司教ならば——。


 全てが、計算されていた。


 魔王城に戻ったのは、日が傾き始めた頃だった。


 城は静まり返っていた。城壁の一部が崩れ、石の破片が散乱している。従者たちが片付けに追われていた。リュカが駆け寄ってきた。


「旦那様——」


「リーリエの部屋に行く」


 リュカの言葉を遮って、カインは城の中に入った。階段を駆け上がり、リーリエの部屋の扉を開けた。


 部屋は——そのままだった。リーリエの残り香が微かに漂っていた。花茶の匂い。マリカが淹れてくれる、あの淡い香り。


 ベッドの上に毛布が乱れている。窓辺に置かれた花瓶に、フィルが摘んできた花がまだ新しい。テーブルの上に読みかけの本。しおりが挟まれている。昨夜リーリエが読んでいた本だ。


 そしてベッドの枕元に——護符が置かれていた。


 カインが護符を手に取った。


 小さな石の護符。カインが自分の魔力を込めて作ったもの。握れば、カインに居場所が伝わる。リーリエがいつも首から下げていた。それが——ここにある。


 握りしめた。


 石が掌に食い込む。痛い。石の角が皮膚を圧し、赤い筋が掌に刻まれる。けれどその痛みが、今のカインには必要だった。怒りに呑まれないために。冷静さを保つために。


「……殺す」


 低い声。自分でも聞こえるかどうかわからないほど低い声。けれどその一言に込められた感情は——五百年の後悔と、今この瞬間の怒りが混ざり合った、途方もない重さだった。


 違う。殺すのではない。取り戻すのだ。


 カインは護符を胸のポケットに仕舞った。


 リーリエの護符。リーリエのもとに——返しに行く。


 振り返ると、扉の前にリュカとヴェルナーが立っていた。二人とも顔が強張っている。カインの怒気に当てられている。


「教会の拠点の位置はわかっているな」


 ヴェルナーが頷いた。「東の山岳地帯。聖堂城塞です。ここから馬で半日の距離」


「一人で行く」


「旦那様——」


「後は任せた」


 カインは二人の横を通り過ぎた。背中越しに言った。


「あいつを取り戻す。それだけだ」


 カインの声には抑揚がなかった。感情が全て一つに凝縮されて、声から色が消えている。かえってそれが——底なしの決意を物語っていた。


 足音が遠ざかる。重い足音。けれど速い。一歩ごとに加速していく。


 リュカがヴェルナーを見た。ヴェルナーがリュカを見た。


 二人とも——何も言えなかった。


 カインの背中が城門の闇に消えていく。黒い外套が翻り、深紅の瞳だけが一瞬、暗闇に光った。それすら消えると——静寂だけが残った。


 リュカが深く息を吐いた。白い息が暗闇の中に消えていく。琥珀色の目に——五十年仕えてきた者だけが理解できる感情が浮かんでいた。背中に冬の風が吹きつけ、尾が微かに揺れた。


「あの方は——五百年前にも、こうだったんでしょうな」


 ヴェルナーが静かに言った。


「聖女を救うために、全てを投げ出す。あのとき間に合わなかった。だから今度は——何があっても間に合わせる」


 リュカが頷いた。


「俺たちにできるのは——この城を守って、お嬢が帰る場所を残すことっすね」


 あの背中を止められる者は、この城にはいない。


 けれど——あの背中が帰ってくる場所を守ることは、できる。リーリエが帰る場所を、残すことは。


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