聖なる炉の気配
地下は——深い。
壁に囲まれた狭い部屋の中で、リーリエは膝を抱えて座っていた。石の床が冷たい。背中を預けた壁からも冷気が染み出してくる。けれど身体は——熱かった。
紋章が脈動している。
左胸の聖女の紋章が、心臓と同じリズムで明滅を繰り返している。淡い白銀の光が、暗い部屋の中で唯一の光源だった。光が強くなるたびに、身体の奥から何かが吸い出されるような感覚がある。
聖なる炉。
リーリエは目を閉じた。
この城塞の地下深くに——それがある。今まで名前としてしか知らなかったもの。教会の教えの中で「聖なる祭壇」と呼ばれ、「聖女が安らぐ場所」と教えられたもの。その実態は——命を燃やす炉。
目を閉じると、それが「見える」。
正確には見えるのではない。感じるのだ。足元の遥か下方に、巨大な存在が横たわっている。洞窟のような空間の中心に、炎のようでいて炎ではないものが渦巻いている。温かい。途方もなく温かい。母の胎内のような温もりがある。
しかしその温もりの正体は——飢餓だった。
炉は飢えている。燃料を求めている。世界を覆う結界を維持するために、常に命を消費し続けなければならない。そしてリーリエが——その燃料。
紋章が、また脈打った。強く。
「……っ」
身体が熱い。肌の下を流れる血が沸騰するような感覚。紋章から光が漏れ、部屋の壁に白い文様を描く。炉がリーリエの存在を感知している。燃料が近くにある——と。
吸われている。
血の巡りが変わっていくのがわかる。指先から、足先から、力が抜けていく。まるで自分という器から、少しずつ水が漏れ出しているような感覚。
命が。少しずつ。紋章を通じて、リーリエの生命力が炉に向かって流れ出している。魔王城にいたときも結界の維持はリーリエの命を削っていた。けれど炉から離れていたから、消費は緩やかだった。
今は——近い。近すぎる。
消費が加速している。身体の末端から力が抜けていく。指先が冷たい。視界が少し霞む。これが——聖女の日常。命を燃やし続ける日々。教会の聖堂にいた頃、リーリエはこの消耗の中で二年間を過ごした。
あの日々が——蘇りかける。
終わらない痛み。灼けるような鈍痛。身体が自分のものではなくなっていく感覚。教会はそれを「聖なる試練」と呼んだ。大司教は「世界を支える尊い苦しみ」と言った。
嘘だ。
これは——ただの消耗だ。命を、意志に関係なく吸い取られる。それだけのこと。
リーリエは歯を食いしばった。
炉の気配が、さらに強まった。足元から這い上がるような圧力。身体全体を包み込む、巨大な存在感。溺れるような感覚。
その中で——。
声が、聞こえた。
最初は風の音かと思った。壁の隙間を通り抜ける空気の音。けれど違う。
人の声だった。
女性の声。微かで、遠くて、壊れかけた声。
「……にげ……て……」
リーリエの目が見開かれた。
もう一つの声が重なった。別の女性の声。もっと若い。もっと切実な声。
「……こわい……いやだ……」
さらに別の声。落ち着いた声。けれど底に絶望を湛えた声。
「……方法が……あるの……」
何十もの声が、重なり合って聞こえる。波のように押し寄せ、引いて、また押し寄せる。
歴代の聖女たちの——声。
炉の中に、彼女たちの残滓が眠っている。命を燃やされた聖女たち。その魂の欠片が、炉の中で今も漂っている。リーリエが炉に近づいたことで、繋がりが強まった。声が——聞こえるようになった。
リーリエは両手で耳を覆った。掌が冷たい。自分の体温がどんどん奪われている。けれど声は止まらない。耳から聞こえるのではない。紋章を通じて、直接心に届いている。
「……逃げて……ここから……」
「……もう……つかれた……」
「……だれか……たすけて……」
何百年もの悲しみが、一度にリーリエの中に流れ込んでくる。
涙が頬を伝った。温かかった。身体は冷え切っているのに、涙だけが温かい。その温度が頬を伝い、顎の先から落ちて、石の床に小さな染みを作った。
この人たちが——同じ苦しみを味わった。同じ炉に命を吸われ、同じ痛みに耐え、同じ絶望の中で死んでいった。リーリエだけが特別だったのではない。何百年も前から——何人もの少女が、この炉の中で消えていった。
「……私だけでは、なかったんですね」
リーリエが呟いた。声が震えていた。
涙を拭いた。紋章が脈動し、身体が軋む。炉の飢餓は止まらない。命の消耗は続いている。
けれど——不思議と、孤独ではなかった。
声が聞こえる。同じ痛みを知る人たちの声が。
その中に——一つだけ、異質な声があった。他の声が悲嘆と恐怖に満ちている中で、その声だけは違った。
「……あきらめ……ないで……」
小さな声。けれど確かな意志を持った声。他の聖女たちの声に埋もれながらも、消えずに響いている。
リーリエは息を止めた。
この声を——知っている。
夢の中で聞いた声。魔王城で眠っているとき、ごく稀に聞こえる、遠い声。あの声と——同じだ。
「……方法が……あるの……あきらめないで……」
誰。
あなたは、誰。
声は——それ以上は聞こえなかった。波が引くように、声たちが遠ざかっていく。炉の気配だけが、変わらず足元に横たわっている。
リーリエは暗い部屋の中で、額の汗を拭った。手の甲が額に触れると、自分の肌が異様に熱いことに気づいた。紋章が体温を奪い、炉が命を吸い、それでも身体は熱を出している。生きている証のような熱。
声が聞こえた。何百年もの聖女たちの声が。その中に一つだけ、「あきらめないで」と言う声がある。
リーリエは——その声に、応えたいと思った。
地下室の空気は冷たく、湿っている。かび臭さと石灰の匂いが鼻の奥に沁みる。石壁に結露が光っている。水滴が一つ、壁を伝って床に落ちた。その小さな音が、静寂の中で大きく響いた。
身体は重い。指先が痺れている。石の床の冷たさが、薄い衣を通して骨にまで沁みている。けれど——心は、まだ動く。
カインの顔が浮かんだ。「必ず戻る」と言ったあの声。ぶっきらぼうで、けれど温かかった声。あの人は今、どこにいるだろう。リーリエが攫われたことを——知っているだろうか。
知っている。きっと知っている。あの人は——いつも、リーリエの異変に気づく。灯りが消えなかったことに気づいて、深夜にミルクを持ってくる人だ。リーリエが寒がっていることに気づいて、黙って外套をかける人だ。
だから——待つ。
あの人が来るまで。諦めない。あの頃の自分ではないから。




