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魔王は死にたがりの聖女を拾い、今日も溺愛で生かしにかかる  作者: 蒼月よる


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連行

 馬車の中は暗かった。


 窓がない。鉄板で覆われた箱のような馬車。天井に聖術の灯りがぼんやりと浮かんでいる。冷たい光。教会の光だ。温かみのない、均一な白い光。


 リーリエは馬車の座席に横たえられていた。身体の拘束は解かれていなかった。紋章への干渉術式が、依然として全身を縛っている。指は動く——少しだけ。けれど腕を上げることも、立ち上がることもできない。


 馬車が揺れている。石畳の道を走っているらしい。車輪の音が規則的に響く。護衛の騎馬の蹄の音が、左右から聞こえる。


 馬車の壁に手を当てた。冷たい鉄板。振動が指先から腕を伝って、全身に響いている。鉄の匂いが鼻を突く。馬の蹄の音が規則的に響き、車輪の軋む音が耳の奥で鳴り続けている。教会に向かっている。炉に向かっている。あの苦痛の場所に——引き戻されようとしている。


 けれど不思議と、以前のような「どうでもいい」は浮かばなかった。代わりにあるのは——怖い、けれど諦めない、という感情だった。


 向かいの座席に、教会の兵士が一人座っていた。若い男だった。二十代前半だろうか。真面目そうな顔。甲冑の下に、不安と使命感が同居した表情を浮かべている。


「聖女様、お加減はいかがですか」


 兵士が聞いた。丁寧な声だった。心からの心配が滲んでいる。


「……水を、いただけますか」


 リーリエが答えた。声は出た。術式の拘束が少し緩んでいる。身体の大きな動きだけを封じている——逃走を防ぐ最低限の拘束に切り替えたのだろう。


 兵士が水袋からカップに水を注ぎ、リーリエの唇に運んでくれた。冷たい水が喉を通った。


「もうすぐ教会の聖堂に着きます。そこで司祭様が治癒の聖術を施してくださいます。魔王に何をされたか——」


「何もされていません」


 リーリエが静かに遮った。


 兵士が目を瞬かせた。


「何も——?」


「魔王は、私に何もしていません。むしろ——助けてもらいました」


 兵士の表情に困惑が浮かんだ。それはそうだろう。彼の知る物語では、リーリエは「魔王に拉致された聖女」だ。「救出」が正義の行いであり、魔王は倒すべき悪。その構図の中に「魔王に助けてもらった聖女」は存在しない。


「聖女様、魔王の洗脳が——」


「洗脳ではありません」


 リーリエの声は穏やかだった。怒りはない。この兵士は悪人ではない。ただ——知らないだけだ。真実を。教会が隠している全てを。


 兵士は口を閉じた。何か言いたそうだったが、聖女に反論することはできなかったのだろう。沈黙が馬車の中に降りた。


 リーリエは目を閉じた。


 馬車の揺れが身体を揺する。この揺れに身を任せていると——記憶が蘇る。


 二年前。


 教会から連れ出されたのも、こんな馬車だった。十五歳のリーリエが、聖女として覚醒した日。教会の聖堂で紋章が発光し、「この子が次の聖女です」と宣言された日。あの日も馬車に乗せられた。行き先は祭壇。命を燃やす場所。


 あの日のリーリエは——何も感じなかった。教会の教えに従い、聖女としての使命を受け入れた。「世界のためです」と言われて、「はい」と答えた。


 今は——違う。


 馬車の揺れが身体を左右に揺する。その揺れに逆らうように、リーリエは背筋を伸ばした。冷たい鉄板に背を預けず、自分の力で身体を支えた。


 今のリーリエには、帰る場所がある。


 魔王城の朝。マリカが淹れてくれる花茶。フィルが摘んできた花が飾られた食卓。リュカの軽口。ヴェルナーの「おはようございます」。そして——カインが不器用に焼いた、少し焦げたパン。


 あの食卓に——帰りたい。


「……帰る」


 リーリエが呟いた。兵士には聞こえないほど小さな声で。


「あの頃の私ではない。帰る場所がある。帰りたいと思える場所がある」


 カインの声が——心の中に蘇った。


 「必ず戻る」。


 南の前線に向かう朝、カインが言った言葉。何気ない一言だった。けれどその言葉の裏には——「お前のところに」が省略されていた。カインはいつもそうだ。大事なことほど言葉にしない。けれど行動で示す。必ず。


 だからリーリエも——信じている。


 カインは来る。


 どんなに遠くても。どんな壁があっても。あの人は——来る。


 馬車が速度を落とした。


 外から声が聞こえる。門を開けろ。聖女様をお連れした。急いで司祭を。


 馬車が止まった。扉が開いた。


 光が差し込んだ。


 眩しい光の向こうに——巨大な建造物が聳えていた。尖塔が天を突き、白い石壁が陽光を反射している。教会の城塞。信仰の要にして、軍事拠点。


 馬車の扉が開くと、冬の風が吹き込んだ。冷たい空気が肺を満たす。光が眩しい。暗い馬車の中に慣れた目に、外の光が刃のように突き刺さった。


 リーリエは兵士に抱えられて馬車から降ろされた。足が地面に触れた瞬間——


 紋章が、脈打った。


 強く。深く。心臓と同期するように。


 地下から——何かが呼んでいる。


 巨大で、古くて、飢えた何か。


 リーリエの足元から、見えない力が這い上がってくる。温かく、しかし底のない飢餓を孕んだ気配。


「——っ」


 息が詰まった。


 これは——。


 兵士に連れられて城塞の中に入る。石造りの回廊。天井の高い広間。聖典の文句が壁に刻まれている。全てが荘厳で、冷たい。


 地下への階段を降ろされた。一段ごとに、あの気配が強くなる。紋章の脈動が速くなる。身体が熱い。


 暗い部屋に通された。壁に紋章が刻まれている。聖女の力を抑制する結界。光は——紋章の淡い光だけ。空気が湿っていた。地下特有のかび臭さが鼻を刺す。石壁から冷気が染み出し、リーリエの肌を粟立たせた。


 扉が閉まった。


 鍵が回る音。


 リーリエは一人になった。


 暗い部屋の中で——足元から伝わる、あの気配だけが、脈々と鳴り続けていた。


 聖なる炉。リーリエの命を燃料にする装置。この地下の、さらに深い場所にそれがある。五百年前から燃え続ける炉。歴代の聖女の命を食らってきた炉。


 リーリエは壁に背を預け、目を閉じた。石壁の冷たさが薄い衣を通して背中に染みる。膝を抱えた。自分の体温を、自分で守るように。指先が冷えて感覚が鈍い。けれど紋章だけが——熱い。暗闘の中で——耳を澄ませた。


 炉の気配の奥に——あの声が、聞こえる気がした。夢の中で聞いた女性の声。「方法がある」と言った声。


 この場所に——答えがあるのかもしれない。


 暗闇の中で、水滴が壁を伝う音が聞こえた。ぽたり、ぽたり。規則的な音。その音だけが、時間が流れていることを教えてくれた。リーリエはその音に耳を傾けながら、膝を抱え直した。身体は冷えている。けれど心の奥に、微かな灯りがある。炉の引力とは違う、自分自身の灯り。それを消さないように——両手で、胸の前で、守るように。


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