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魔王は死にたがりの聖女を拾い、今日も溺愛で生かしにかかる  作者: 蒼月よる


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急襲

 それは——あまりにも静かに始まった。


 午後の陽が回廊を金色に染めていた。リーリエは城の二階を歩いていた。午前中の会議が長引いて、少し頭が重い。聖騎士団長との交渉の進捗、結界の弱体化の報告、各地の災厄の状況——考えなければならないことが多すぎて、頭の整理が追いつかない。


 カインは南の前線にいる。朝早くに出発した。辺境で災厄の侵入が確認されたという報せを受けて、「すぐ戻る」とだけ言い残して。リュカとヴェルナーが城の守りを固めている。フィルとマリカは厨房で夕食の仕込みをしているはずだった。


 静かな午後だった。窓から差す陽光が廊下の石壁を温め、古い石材から微かに乾いた匂いが立っている。リーリエは窓辺に立ち止まり、南の空を見つめた。カインがいる方角。雲が西から東へゆっくりと流れ、冬にしては穏やかな空だった。


 あと何時間かすれば、カインが帰ってくる。「すぐ戻る」と言っていた。リーリエはそのぶっきらぼうな約束を信じている。今日の夕食はマリカが特別にシチューを作ると言っていた。温かいスープとパンと——


 風が——変わった。


 甘い午後の空気が一瞬で凍りついた。窓から吹き込む風の温度が、一段下がった気がした。


 リーリエが足を止めたのは、胸の紋章がざわついたからだった。左胸の聖女の紋章が、微かに熱を帯びた。何かに反応している。結界の乱れ——ではない。もっと近い。もっと直接的な——。


 窓の外。


 何かが光った。


 白い光。聖術の光。それが城壁に向けて放たれた瞬間、轟音とともに石壁が砕けた。破片が飛散し、衝撃波が回廊を駆け抜ける。リーリエは咄嗟に壁に身を寄せた。


「——何」


 砕けた壁の穴から、白銀の甲冑を纏った人影が飛び込んできた。一人。二人。三人。教会の聖騎士——いや、違う。通常の聖騎士ではない。甲冑の紋章が異なる。胸に刻まれているのは、大司教直轄の精鋭部隊の紋章。


「聖女を確保せよ」


 先頭の男が短く命じた。声に感情はない。任務を遂行する者の、淡々とした声。


 リーリエは走った。


 心臓が喉元まで跳ね上がった。足が縺れそうになる。走り慣れていない身体が悲鳴を上げている。廊下の石畳が靴底を叩く音が、やけに大きく響いた。考えるより先に身体が動いていた。廊下を駆け、角を曲がり、階段を目指した。城の中には従者たちがいる。彼らを巻き込むわけにはいかない。


 足音が追ってくる。甲冑の重い足音。しかし速い。精鋭と呼ばれるだけのことはある。


 角を曲がった瞬間——前方にも、白銀の甲冑が立っていた。


 挟まれた。


 呼吸が止まった。冷たい汗が背中を伝う。白銀の甲冑の表面に、廊下の灯りが反射している。聖印の紋章が胸に光っている。その光が——教会の祭壇を思い出させた。


 リーリエの足が止まった。前と後ろ。退路がない。これは偶然の包囲ではない。城の構造を把握し、逃走経路を塞いだ上での急襲。計画的な——。


「聖女様。ご無理をなさらないでください」


 前方の騎士が言った。その声には——不思議なことに、敬意があった。彼らにとってリーリエは「魔王に囚われた哀れな聖女」なのだ。「救出」しに来たのだ。真実を知らないから。


 リーリエの手が、首元の護符に伸びた。カインが渡してくれた護符。握れば、カインに居場所が伝わる。


 紋章が——脈動した。


 胸の聖女の紋章が、突然強く脈打った。そして同時に、身体が——動かなくなった。


「……っ」


 指が止まった。護符に触れる直前で。手が、腕が、脚が——まるで見えない鎖に繋がれたように、動きを封じられた。紋章が教会の術式に反応している。聖女の紋章を制御する術——教会は、そんなものを持っていた。


 護符に——届かない。


 あと少し。あと一寸。指先が護符の黒い石をかすめている。石の中の赤い光が——激しく脈打っていた。まるでカインの魔力が、リーリエの危機を感じ取っているかのように。けれど指が届かない。見えない壁が、指先と護符の間に立ちはだかっている。


 カインの名を心の中で呼んだ。カインさん。カインさん。


 届かない。


「申し訳ありません、聖女様。お身体を拘束させていただきます」


 騎士が近づいてきた。優しい声だった。「救出」する者の声だった。リーリエを守ろうとしている者の声だった。


 ——嫌だ。


 その感情が、胸の奥から湧いた。熱く、鋭く、全身を貫くように。身体が動かないのに、心だけが暴れていた。


 かつてのリーリエなら——「別にいいです」と受け入れていただろう。疲れたから。もうどうでもいいから。抵抗しても無駄だから。


 今は違う。


 嫌だ。ここから連れて行かれるのは嫌だ。この城を離れるのは嫌だ。カインのそばを離れるのは嫌だ。


 その「嫌だ」を感じられること自体が——かつてとは違う自分の証だった。


 しかし身体は動かない。紋章の拘束が強すぎる。指の一本すら、自分の意志で動かせない。


 遠くで——轟音が聞こえた。


 南の方角。空気を裂くような衝撃波。カインが前線で戦っている音だ。大司教の計略。カインを前線に引きつけ、城の守りが薄くなったところを急襲する。全ては——計算されていた。


 リーリエは騎士に抱えられた。丁重に。壊れ物を扱うように。


 回廊の窓から、空が見えた。雲ひとつない青空。陽光が石壁を白く照らし、冬の乾いた光が目を刺す。こんなに晴れた日に——攫われるなんて。


 護符が、ベッドの上に残された。カインの護符が。リーリエの手から離れて、届かない場所に。


 リーリエは心の中で呟いた。


 ——カインさん。


 声は出なかった。術式が声帯も縛っている。けれど心の中で、何度も呼んだ。


 カインさん。


 私は——諦めません。あの頃の私ではないから。


 甲冑の金属が肌に冷たかった。鉄と革と聖油の匂いが鼻を刺す。騎士たちの呼吸が耳元で規則的に響いていた。


 白銀の甲冑に囲まれて、リーリエは魔王城から連れ出された。


 城門を通過するとき、振り返った。動かない身体で、首だけをかろうじて回した。風が銀灰色の髪を顔に押しつけた。涙で濡れた髪が頬に貼りつく。魔王城の黒い尖塔が、青空を背に聳えている。あの城で過ごした日々の全てが——遠ざかっていく。


 カインの不器用な優しさ。マリカの温かいスープ。フィルの花。リュカの軽口。ヴェルナーの静かな気配り。


 全てが——遠ざかっていく。


 外套の裏地がマリカの縫い直してくれた布だった。肩に馴染む感触が、胸を刺した。フィルがくれた青い石がポケットの中で揺れている。重さが——温かさが——離れていく。


 紋章の拘束の中で、リーリエの目から——一筋の涙が流れた。術式は声を封じたが、涙までは封じられなかった。


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