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魔王は死にたがりの聖女を拾い、今日も溺愛で生かしにかかる  作者: 蒼月よる


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嵐の目

 嵐の目だった。


 教会軍の攻勢が止まっていた。交渉の決裂後、誰もが次の攻撃に備えて身構えていたが——教会軍は動かなかった。陣地を再編し、物資を補給し、兵の配置を整えている。新しい天幕がいくつか増えた。後方から補給隊が到着したらしく、馬車の列が見えた。


 嵐の前の静けさ。


 魔王城にも束の間の平穏が訪れていた。負傷者の治療が進み、城壁の補修が行われ、従者たちが淡々と日常を回していた。マリカが温かいスープを作り、フィルが城の掃除をし、リュカが冗談を言って空気を和ませる。ヴェルナーが防衛計画を見直し、学者のエルンストが持ち込んだ資料を整理している。


 しかし——誰もが知っていた。これは平穏ではなく、猶予だと。大司教の「別の方法」が何を意味するのか、まだわからない。わからないことが——最も恐ろしい。


 朝。


 リーリエは目覚めたとき、身体の重さに気づいた。


 いつもと違う重さだった。結界維持の鈍痛は常にある。全身を内側から灼く痛みは、覚醒してから一日も途切れたことがない。しかし今朝のそれは——質が違った。痛みの上に、さらに別の何かが乗っている。身体の芯が熱い。微熱がある。頭がぼんやりする。手足が重い。


 そして——紋章が揺らいでいた。


 左胸の白銀の紋様が、規則的に明滅している。以前の「一瞬の揺らぎ」とは違う。断続的に、ちかちかと。光が強くなったり弱くなったりを繰り返している。まるで——呼吸するように。紋章が独自のリズムで脈打ち、リーリエの鼓動とは異なる周期で明滅している。


 リーリエはベッドの上で紋章に手を当てた。


 炉との繋がりが——強まっている。


 いつもは背景音のように流れていた炉の気配が、今は——耳元で囁くように近い。まるで炉がリーリエを引き寄せているような。離れたリーリエを、引き戻そうとしているような。教会の祭壇にいたとき、炉はリーリエの身体の一部のように感じられた。離れてからは、遠い響きになっていた。それが——また近づいている。


 手を見た。指先が微かに震えている。力が入りにくい。


「……リーリエ」


 部屋の扉が開いた。カインだった。


 朝の巡回から戻ったのだろう。黒い外套に冬の朝露がついている。リーリエの顔を見た瞬間、カインの表情が変わった。目が鋭くなった。


「顔色が悪い」


「少し——熱があるみたいです」


「少しじゃない。目の下に隈がある」


 カインがリーリエの額に手を当てた。大きな手が額を覆う。微熱。しかし聖女の身体は普通の人間とは異なる。微熱であっても、炉との繋がりの変化を示す可能性がある。普通の風邪とは——意味が違う。


「紋章を見せろ」


 リーリエが襟元を広げた。白銀の紋章が明滅している。ちか、ちか、と。不規則なリズム。カインが手をかざし、魔力で探る。赤い光が手のひらから漏れ、白銀の紋章と交差する。


 カインの表情が——険しくなった。眉間に深い皺が刻まれた。


「炉との繋がりが強まっている」


「やはり——」


「紋章の揺らぎが頻発している。前は一瞬だけだったのが、今は断続的に起きている。揺らぎの間隔が短くなっている。深層部の振動も大きくなっている」


 カインの声は冷静だった。分析者としての声。しかしその冷静さの下に——焦りが滲んでいた。声が微かにかすれている。


「炉がお前を引き寄せようとしている」


「引き寄せる……?」


「炉は聖女の命を燃料にする。聖女が離れれば、炉は不安定になる。不安定になった炉が——聖女との繋がりを強めて、引き戻そうとしている。自動的に。炉に意志はない。しかし構造として——聖女を引き寄せる力が働く」


 リーリエの背筋が冷たくなった。


 炉が——自分を引き戻そうとしている。自分の意志とは関係なく。身体が、紋章が、炉に引き寄せられている。距離を置いても、逃げても——炉は追いかけてくる。紋章を通じて。命を通じて。


「どうすれば」


「今は——わからない。しかし進行を遅らせることはできるかもしれない。俺の魔力で紋章の振動を抑える方法を試す」


「お願いします」


「今日は寝ていろ。動くな」


「でも——」


「動くな」


 二度目の「動くな」は——命令ではなく、懇願に近かった。声の奥に、隠しきれない恐怖があった。リーリエの身体が変わっていくことへの恐怖。五百年前、初代聖女の身体が変わっていくのを見た記憶が——カインの中で蘇っている。


 リーリエは——頷いた。


「わかりました」


 カインの肩から、ほんの少しだけ力が抜けた。


「カインさん」


「何だ」


「あなたの手は——温かいですね」


 カインの額に当てられていた手。大きくて、硬くて、しかし温かい手。五百年の孤独を生きた手が——今は、一人の少女の額に触れている。


 カインが振り返った。リーリエが微かに笑っていた。目が笑っている——ほんの少しだけ。以前は決して見せなかった、ふっと力の抜けた笑み。微熱に浮かされているのかもしれない。しかしその笑みに——カインの胸が痛んだ。


「……寝ろ」


 カインが出ていった。


 しかし——出ていかなかった。


 夜。


 リーリエが微熱に浮かされて浅い眠りについたとき、枕元に気配があった。


 カインだった。椅子を持ち込み、リーリエのベッドの脇に座っていた。手に濡れた布を持ち、リーリエの額にそっと当てている。冷たい布。カインの手の温もり。その二つが交互にリーリエの額に触れている。


 リーリエが薄目を開けた。


「……カインさん」


「起こしたか。寝ていろ」


「起きてたんですか。ずっと」


「……うるさい。寝ろ」


「ありがとうございます」


「黙って寝ろ」


 カインの声は素っ気なかった。しかし布を当てる手は——優しかった。力加減が完璧だった。五百年の戦場で鍛えた手が、今は一人の少女の額に布を当てるために使われている。


 リーリエは目を閉じた。額に当てられた布が冷たくて心地よい。カインの気配がすぐ近くにある。椅子の軋む音。微かな呼吸。その気配が——微熱よりも確かに感じられる。


「……大丈夫ですよ」


「何がだ」


「私は——大丈夫です。まだ死にません」


 カインの手が——止まった。


「……まだ死ねません。カインさんが心配するから」


 リーリエの唇が微かに笑みの形を作った。


 かつてのリーリエは「死にたい」と言った。少し前のリーリエは「もう少しだけ、ここにいたい」と言った。今のリーリエは——「まだ死ねません」と言った。否定の形だが——その中に、生きようとする意志の芽がある。


 眠りに落ちていく。カインの気配を感じながら。この人がいれば、大丈夫だ。根拠はない。論理はない。大司教の功利主義を論破する力もない。


 けれど——この人がいれば。


 カインはリーリエが眠った後も、枕元を動かなかった。濡れた布を新しく絞り、額に当て直した。リーリエの寝息を聞きながら。紋章の明滅を見つめながら。


 五百年前と——同じだった。力を使い果たしていく聖女の枕元に座る。何もできない。見守ることしかできない。しかし——あのときとは違うことがある。


 あのときは、一人だった。


 今は——二人だ。


 嵐の目の中の静けさ。リーリエの身体は変わりつつある。炉が聖女を引き寄せている。紋章が揺らぎ、微熱が続く。時間は——無限ではない。


 そして教会は——次の手を打とうとしている。


 第2部終結。第3部「奪還と離反」へ。


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