聖騎士団長の選択
夜は——長かった。
教会軍の陣地。聖騎士団長の天幕。
レオンハルト・クレーフェは、一人で座っていた。
甲冑は外してある。革の上衣と厚い布のズボン。戦場にいるとは思えないほど、身軽な格好だった。しかしその身軽さが、逆にレオンハルトの心の重さを際立たせていた。鎧を着ていれば「聖騎士団長」でいられる。鎧を脱いだ今は——ただの男だ。
剣だけが傍らに置いてある。手入れの行き届いた剣。聖騎士団の紋章が刻まれた柄。この剣を握って何年になるだろう。十年。十年間、この剣で「正義」を守ってきた。聖女を守り、教会を守り、世界の平和を守る。そう信じて。
正義。
その言葉が、今は重い。鉄の塊のように重い。
リーリエの言葉が頭の中で反芻されている。何度も。何度も。止まらない。
聖女は人柱だ。命を燃料に結界を維持する仕組みだ。教会はそれを知っている。大司教はそれを知った上で、三十年間——聖女を炉に送ってきた。三人の聖女を。名前のある。人生のある。家族のあった——三人の少女を。
レオンハルトは頭を抱えた。
聖騎士団の任務は「聖女を守る」ことだった。聖女を外敵から守り、魔物から守り、あらゆる危険から守る。それが聖騎士の誓いだ。入団式で誓った。剣を掲げ、紋章の前で跪き、「聖女を守り、教会に仕え、世界の平和を守る」と。あの日の誓いは——誇りだった。
しかし——聖女を殺しているのが教会そのものなら。
守るべき敵は——外にいるのではなく、内にいたのだ。自分たちの背後に。自分たちが信じ、仕えてきた組織の中に。
レオンハルトは拳を握りしめた。握りすぎて、爪が掌に食い込んだ。痛い。その痛みが——今は心地よかった。物理的な痛みの方が、心の痛みよりまだ耐えられる。
俺は何を守ってきた。
聖女を守ると言いながら、聖女を殺す仕組みの番人をしていた。聖騎士の誇りも、教会への忠誠も、全ては——嘘の上に建てられた城だった。砂上の楼閣。一つの真実で、全てが崩壊した。
部下のことを思った。聖騎士団の兵士たち。レオンハルトの命令に従って戦っている男たち。彼らも知らない。聖女制度の真実を。「聖女救出」という大義を信じて、命を懸けている。彼らにとってのレオンハルトは「信頼できる団長」だ。その団長が——真実を知ってしまった。
彼らに伝えるべきか。伝えれば——騎士団は分裂する。教会に忠誠を保つ者と、レオンハルトに従う者に割れる。仲間同士が剣を向け合う可能性がある。
伝えなければ——彼らは知らないまま、聖女を殺す仕組みのために戦い続ける。
どちらも——辛い。
思い出す。
聖騎士団に入団した日。十八歳だった。父親の剣を受け継ぎ、白銀の甲冑を身に着け、聖女の紋章の前で跪いた。隣には同期の仲間がいた。みな若かった。みな正義を信じていた。
あの誓いは——嘘だったのか。
違う。
レオンハルトは首を振った。強く。
あの誓いは嘘ではない。自分の気持ちは本物だった。聖女を守りたかった。正義を信じていた。それは——今も変わらない。変わったのは——「何を守るべきか」の答えだ。
初代聖騎士の伝承を思い出した。
聖騎士団には、初代団長についての古い言い伝えがある。「初代聖騎士は聖女を守り、聖女を失い、教会に背いた」。教会の教えでは、初代聖騎士は「聖女の死に責任を感じて堕落した者」として伝えられている。裏切り者。不信心者。聖騎士団の恥。
レオンハルトは子供の頃からこの伝承を聞かされてきた。「初代聖騎士のようにはなるな」と。「信仰を失えば人は堕落する」と。
しかし——今なら、別の見方ができる。
初代聖騎士は——聖女を制度から守ろうとしたのではないか。
教会が聖女を殺す仕組みだと知って、それを止めようとしたのではないか。止められなかった。だから「教会に背いた」。教会にとって不都合な真実を知った者は——排除される。追放される。「裏切り者」の烙印を押される。
初代聖騎士は裏切り者ではなく、聖女を守ろうとした最初の騎士だった。
その初代聖騎士と——カインの姿が重なった。「魔王」と呼ばれた男。教会に追放された男。しかしその男は——五百年間、聖女を救う方法を探し続けていた。
……もしそうなら。
レオンハルトは剣を握った。
柄に刻まれた聖騎士団の紋章に指を這わせた。この紋章は——初代聖騎士が定めたものだ。聖女を守る剣の形。五百年受け継がれてきた紋章。その紋章の本当の意味は——教会を守ることではなく、聖女を守ること。
「制度を守ることが正義なら——その正義は間違っている」
声に出して言った。天幕の中に、自分の声が響いた。低い声。かすれた声。しかし——揺るぎのない声。
「俺が守るべきは——目の前の一人の人間だ」
リーリエの顔が浮かんだ。あの穏やかな微笑み。「あなたのせいではありません」と言ったときの声。膝をついた自分に手を差し伸べた、細い手。あの手は——傷ついた騎士に手を差し伸べた、聖女の手ではない。一人の人間の手だ。
あの手を——守りたい。
しかし。
レオンハルトは立ち上がりかけて——座り直した。
教会を裏切る。それは簡単なことではない。自分一人の問題ではない。部下がいる。家族がいる。聖騎士団の兵士たちが、自分の命令に従って戦っている。彼らを巻き込むことになる。
いつ行動するか。どう行動するか。まだ——決められない。しかし決めなければならない日は——近い。
天幕の外で、夜風が吹いている。教会軍の篝火が闇を照らしている。あの火の向こうに——魔王城がある。リーリエがいる。
リーリエの言葉が蘇る。
「あなたのせいではありません」
その優しさに——レオンハルトは救われていた。聖女に救われた。いや——一人の人間に救われた。
信念は砕けた。新しい形で再構築されつつある。あとは——行動するときだけ。
レオンハルトは剣を膝に置いた。紋章に指を当てたまま。
夜明けまで——まだ、時間がある。
天幕の外で夜風が吹いた。教会の陣地から、兵士たちの低い歌声が聞こえてくる。故郷を歌う歌。家族を思う歌。彼らもまた——教会の命令で戦場に来た人間だ。正義を信じて。聖女を救うために。
聖女を救う。
レオンハルトは目を閉じた。聖女を救うことが騎士の誓いだ。しかし「救う」とは何だ。教会に連れ戻すことが救いなのか。炉に送ることが救いなのか。
あの少女が——魔王城で「穏やかです」と言った顔が、瞼の裏に浮かんだ。教会にいた頃の虚ろな目ではなく——微かに光を宿した、穏やかな表情。
信念は砕けた。しかし——新しい形が、おぼろげに見え始めていた。聖女を守ること。それだけは変わらない。変わるのは——「守る」の意味だ。
剣の柄を握り直した。紋章に刻まれた「忠誠」の文字が、指の下で冷たく光っている。
夜明けが来る。そのとき——レオンハルト・クレーフェは、騎士として選ぶ。




