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魔王は死にたがりの聖女を拾い、今日も溺愛で生かしにかかる  作者: 蒼月よる


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帰還

 帰り道は、静かだった。


 カインがリーリエの隣を歩いていた。肩を抱くでもなく、手を引くでもなく。ただ隣に。半歩だけ前を歩いて、風を遮る位置に立っている。無意識なのだろう。五百年の習慣が身体に染みついているのだ。誰かの盾になる位置取り。それが自然にできてしまうのが——カインという男だった。


 リーリエは何度か口を開きかけて、やめた。言いたいことはたくさんあった。大司教の話。功利主義の論理。「一人の命で万人を」。故郷を失った男。「残念です」と穏やかに告げた声。しかし今は——言葉にならなかった。疲れていた。心も身体も。大司教との対話は、戦場とは別の意味での戦いだった。剣ではなく言葉で、鎧ではなく論理で。


 カインは何も聞かなかった。


 聞かないけれど——全てわかっている。リーリエの表情を見れば、どんな対話があったか推察できる。涙の痕がある。しかし目は生きている。つまり——折れなかった。


 その沈黙が、リーリエには心地よかった。


「……カインさん」


「何だ」


「大司教に会いました」


「ああ。知っている」


「あの人の気配が——わかったのですか」


「あいつの聖術は独特だ。隠していても匂う。——三十年間、同じ聖術を練り続けた男の気配は、誤魔化しが利かない」


 短い言葉の交換。しかしその中に——共有された理解がある。多くを語らなくても、二人は同じ景色を見ている。


 魔王城の城門が見えてきた。黒い石造りの城壁。冬の光を受けて鈍く光る石。リーリエにとって、この城門は——「帰る場所」の入口だった。


 門をくぐった瞬間、歓声が上がった。


「リーリエ様!」


 マリカが真っ先に駆け寄ってきた。目が赤い。泣いていたのだろう。ずっと城門の近くで待っていたのかもしれない。「ご無事で——ご無事でよかった!」と言いながら、リーリエの手を取った。マリカの手は温かかった。


 フィルが後ろから走ってきた。「リーリエ様、お帰りなさい!」と満面の笑みで。小さな手にリーリエの好きな花茶の葉を握りしめている。「すぐにお茶を淹れますね! 温かいやつ!」


 ヴェルナーが静かに頭を下げた。「お疲れ様でした」。短い言葉だが、その声に安堵が滲んでいた。白い髭の下の口元が、微かに緩んでいた。


 リュカが壁にもたれて待っていた。いつもの軽い笑みだが、目が真剣だった。カインの方を見て、にやりと笑った。


「旦那様、心配しすぎて城壁から三回降りかけたって、ヴェルナーさんが言ってましたよ」


「黙れ」


 カインが即座に返した。リュカが肩をすくめて笑う。ヴェルナーが「私はそのようなことは……」と呟いたが、目が泳いでいた。


 リーリエは——「ただいま」と言った。


 その言葉が口から出た瞬間、自分でも驚いた。


 「ただいま」。帰る場所に対して言う言葉。教会にいた頃は、この言葉を使ったことがなかった。教会の部屋に戻っても、「戻りました」とは言ったが「ただいま」とは言わなかった。帰る場所ではなかったから。ここが——帰る場所だ。この城が。この人たちが。


 マリカが泣きながら笑った。フィルが「お帰りなさい!」と繰り返した。ヴェルナーが微かに頬を緩めた。リュカが「お帰り、お嬢」と手を振った。


 温かかった。冬の城の中なのに——温かかった。


 リーリエの部屋。


 マリカが用意してくれた温かい湯に手を浸し、冷えた指先を温めた。フィルが淹れてくれた花茶の香りが部屋に広がっている。リーリエは椅子に座り、両手でカップを包んだ。湯気が顔を温める。身体の芯からほぐれていく。大司教との対話で消耗した精神が、少しずつ回復していく。


 扉が叩かれた。


「入れ」と言おうとして——これは自分の部屋だ、と気づいた。「どうぞ」と言い直した。


 カインだった。


 入口に立ったまま、部屋に入ってこない。敷居の手前で止まっている。リーリエの部屋に入ることに、いまだに遠慮がある。五百年生きた男の、不器用な礼儀。


「大司教に——何を言われた」


 リーリエは花茶のカップを置いた。


「たくさん言われました」


 そして——交渉の内容を語った。使節団の論理。大司教の登場。「崇高な使命」。「一人の命で万人を」。故郷を失った過去。「残念です」という最後の言葉。


 カインは黙って聞いていた。壁にもたれて腕を組み、微動だにしなかった。表情が変わらない。しかし拳が——きつく握られていた。腕を組んだ中で、拳が白くなっている。


「一人の命で万人を救えるなら——と言われました。論理的には、反論できませんでした」


「論理なんかどうでもいい」


 カインの声は低かった。静かだった。しかし——揺るぎがなかった。


「お前が生きていれば、それでいい」


 リーリエが目を見開いた。


 論理なんかどうでもいい。


 大司教の精巧な功利主義を、カインは一言で切り捨てた。論理で返さない。数字で返さない。ただ——「お前が生きていればいい」。それだけ。一人の人間に対する、むき出しの感情。世界の存続よりも、一人の少女の命を選ぶ。それは大司教の論理からすれば無責任だ。非合理だ。しかし——。


 リーリエの胸の奥で、何かが温かくなった。涙が込み上げそうになった。嬉しくて。この言葉が欲しかったのだと気づいて。


「……ありがとうございます」


「礼はいい」


「でも——本当に嬉しかったんです。その言葉が。大司教の論理は完璧で、反論できなくて、苦しかった。でも——カインさんの言葉を聞いたら、楽になりました」


 カインが視線を逸らした。耳の先が赤い。


「……寝ろ。明日もある」


「はい」


 カインが部屋を出ていった。足音が廊下に消えていく。不器用な足音。速くもなく遅くもない。しかし——部屋を出た直後に、一瞬だけ足音が止まった。振り返ったのかもしれない。そしてまた歩き出した。


 リーリエは花茶のカップを両手で包んだ。まだ温かい。カインの言葉と同じくらい。


 大司教に屈しなかった。帰らないと言った。


 それは小さいが——確かな勝利だった。


 窓の外が暗くなっていた。いつの間にか日が落ちていた。教会軍の篝火が遠くで揺れている。明日からまた戦いが始まるのだろう。けれど今夜は——停戦が続いている。


 花茶の最後の一口を飲み干した。冷めかけていたけれど——まだ、温かかった。


 カインの足音が遠ざかったあとの静けさの中で、リーリエは自分の手を見つめた。大司教と向かい合ったとき、この手は震えていた。けれど——最後まで、膝の上から離さなかった。護符を握りしめ続けた。


 この手で——まだ、できることがあるはずだ。カインの傷を手当てしたこの手で。パンをこねたこの手で。花茶を淹れたこの手で。


 何を——選ぶべきなのか。


 答えはまだ見えない。けれど——問いを持てること自体が、かつてのリーリエにはなかった力だった。


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