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魔王は死にたがりの聖女を拾い、今日も溺愛で生かしにかかる  作者: 蒼月よる


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崩壊する信念

 聖騎士団長レオンハルト・クレーフェは、真実を知らなかった。


 交渉が行われている間、レオンハルトは教会軍の陣地で待機を命じられていた。大司教が直接交渉に臨んだこと自体、レオンハルトには知らされていなかった。「聖女との対話は高位の聖職者が行う。聖騎士団は待機せよ」——その命令に従い、天幕で部下の報告を受けていた。


 しかしレオンハルトの中には——ずっと引っかかっていたものがあった。


 聖女リーリエの「疲れた目」。


 二年前。聖女護衛任務の際に一瞬だけ見た、あの目。覚醒したばかりの聖女は白い聖衣を纏い、祈りの場に向かっていた。すれ違ったとき、レオンハルトは敬礼をした。聖女が微笑み返した。穏やかな笑みだった。しかし——目が笑っていなかった。「もう疲れた」と言っているような、光を失った目。


 あの目は——洗脳された者の目ではなかった。もっと深い何かだった。


 交渉の合間を縫って、レオンハルトは動いた。


 独自に中立地帯に赴き、聖女との接触を試みた。命令違反だと知っていた。聖騎士団長が大司教の許可なく聖女に接触すれば、軍規違反だ。しかし——「聖女殿に直接確認するまで、俺は納得できない」。レオンハルトは規則より信念を選ぶ男だった。昔からそうだ。それが長所であり、短所でもある。


 天幕の裏手。教会軍からも魔王城からも見えない窪地。枯れ草が風に揺れる小さなくぼみ。そこにリーリエが来た。交渉の場から帰る途中で、カインの護衛に伝言を頼んだのだ。「聖騎士団長が話したいと言っている」と。


 レオンハルトがリーリエの前に立った。


 白銀の甲冑。砂色の短髪。琥珀色の瞳。右頬の古い刀傷。絵に描いたような騎士だった。背が高く、肩が広く、甲冑が似合う。しかし今のレオンハルトの顔には——迷いがあった。


「聖女殿。本当のことを教えてほしい」


 嘘がつけない目だった。まっすぐに相手を見る癖。政治的な駆け引きが不得意な男の、不器用な真っ直ぐさ。


「洗脳ではないのですか。なぜ魔王城にいるのですか。——俺に、教えてください」


 リーリエは、この男の目を見た。


 使節団とは違う。大司教とは違う。この人の目には——純粋な疑問と、純粋な心配がある。「答えが怖い」という恐怖を押し殺して、それでも真実を知りたいと願う目。騎士の目だ。正義を信じる者の目。


 この人になら——話せる。


「洗脳ではありません」


 リーリエの声は静かだった。穏やかだった。


「魔王城にいるのは、私の意志です。そして——私が教会に戻れない理由を、お話しします。聞いてください。全てを」


 レオンハルトが頷いた。真剣な顔で。拳を握りしめて。


「聖女は——命を燃料に、結界を維持する人柱(アンカー)です」


 レオンハルトの顔が凍った。琥珀色の瞳が見開かれた。


「聖女の紋章は、命を削る仕組みです。覚醒した瞬間から、聖女の命は結界の燃料として消費され続けます。全身を内側から灼くような鈍痛が、一瞬も止まらない。眠っているときも。食事をしているときも。祈っているときも」


 レオンハルトの顔から血の気が引いていった。唇が震えている。


「教会はそれを知っています。大司教は全てを知った上で——三十年間、聖女を炉に送り続けてきました。三人の聖女を。みな若くして亡くなっています。『病死』と記録されていますが——本当は、命を使い果たしたのです」


 リーリエは淡々と語った。感情を込めなかった。事実を並べた。聖女制度の真実を。結界の仕組みを。命が燃料として消費されることを。炉に送られた聖女がやがて力を使い果たし、死ぬことを。


 レオンハルトは——何も言えなかった。


 琥珀色の瞳が見開かれ、口が半開きになり、顔から血の気が引いていった。言葉が出ない。声が出ない。頭が真っ白になっている。聖騎士団長として数々の戦場を経験し、死を見てきた男が——言葉を失っている。


「私が教会に戻れば、結界は安定します。しかし——私は炉の燃料として命を燃やされ続け、いずれ死にます」


「……嘘だ」


 レオンハルトの声が掠れた。喉が張り付いたような声。


「嘘だと言ってくれ。聖女殿。教会が——俺たちの教会が——そんな——」


「嘘ではありません。私の身体を見ればわかります」


 リーリエが聖衣の襟元を広げ、左胸の紋章を見せた。白銀の紋様が肌の下で発光している。規則的に脈打っている。


「この紋章が——私の命を削り続けています。覚醒してから二年間、一瞬も止まったことがありません。全身を焼かれるような痛みが——ずっと、続いています。今も」


 レオンハルトの膝が——崩れた。


 地面に膝をついた。白銀の甲冑が石と枯れ草に当たって、乾いた音を立てた。がしゃん、と。騎士が地に膝をつく音。それは——信念が崩壊する音だった。


「俺は……何を守ってきた」


 声が震えていた。大きな身体が震えていた。


「聖女を守ると誓って。聖騎士団に入って。十年間剣を振るって。聖女を守ることが正義だと信じて。——その聖女を殺す仕組みの、番人だったのか。俺たちは——聖女を守るんじゃなくて、聖女を逃がさないための看守だったのか」


 涙が落ちた。


 琥珀色の瞳から、涙が地面に落ちた。大粒の涙が、枯れ草を濡らした。聖騎士団長。教会に忠誠を誓った騎士。正義を信じた男。その正義が——根底から崩壊した。


 十年間信じてきたものが嘘だった。守ってきたものが殺す仕組みだった。掲げてきた旗が偽りだった。その衝撃は——戦場で受けたどんな傷よりも深かった。


「聖騎士は聖女を守る。——俺はそう教わった。そう信じた。だが、守るべき聖女を殺しているのが教会だったなら——俺は、何のために剣を振るってきた」


 リーリエは——手を差し伸べた。


 膝をつくレオンハルトの前にしゃがみ、その手を取った。大きな手。剣だこのある手。騎士の手だ。その手が——今は震えている。


「あなたのせいではありません」


 リーリエの声は穏やかだった。温かかった。


「あなたは知らなかっただけです。教会が隠していたのです。あなたの正義は——間違っていなかった。ただ、真実を知らされなかっただけです」


 レオンハルトがリーリエを見た。涙に濡れた琥珀色の瞳が、リーリエの薄い青紫の瞳を見つめた。


「聖女殿……」


「リーリエです」


 リーリエが微かに笑った。穏やかに。優しく。


「聖女ではなく——リーリエと、呼んでください」


 レオンハルトの唇が震えた。大きな手がリーリエの小さな手を握り返した。強く。しかし傷つけないように。


「……リーリエ殿。俺は——あなたを守ると誓った騎士だ。その誓いは——今も変わらない。いや——今こそ、本当の意味で守りたい」


 聖騎士の信念が砕けた。


 だがその破片の中から——新しい何かが生まれようとしていた。


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