故郷を失った男
大司教が——目を伏せた。
それはこの対話の中で初めて見せた、防御の仕草だった。ほんの一瞬。灰色の瞳が卓の上の自分の手に落ち、すぐにリーリエに戻った。しかしその一瞬の間に——何かが変わった。大司教の纏う空気の質が、わずかに揺らいだ。
「リーリエ様」
大司教の声は穏やかだった。変わらず穏やかだった。しかしその穏やかさの質が——微かに異なっていた。計算ではなく、何か別のものが混じっている。三十年間磨き上げてきた完璧な弁論家の仮面の、奥から滲み出る何か。
「あなたは『人間です』とおっしゃった。……私もかつて、同じ言葉を聞いたことがあります」
リーリエは身構えた。大司教の言葉の変化に気づいたからだ。この人が「かつて」という言葉を使ったのは初めてだった。これまでの対話は全て「現在」と「未来」の話だった。過去を語らなかった。過去を語る必要がなかったから——そして今、語ろうとしている。
「私はかつて——結界が崩れた世界を見ました」
その一言で、天幕の温度が変わった。
「若い頃です。私が大司教に就任して間もなく。三十代の初め。当時の聖女が力を使い果たし、結界に——一時的な綻びが生じました。ほんの数日。それだけのことでした」
大司教の声が淡々としていた。感情を排除した語り口。報告書を読むような声。しかしリーリエには——その淡々さの下に、何かが押し殺されていることが感じ取れた。水面の下で溺れている感情。
「綻びは小さなものでした。世界の結界全体から見れば、針の穴ほどの。しかし——そこから災厄が漏れた。私の故郷の近くに」
故郷。
大司教に——故郷がある。当然だ。この人も人間だ。どこかで生まれ、育ち、故郷と呼ぶ場所があった。教会の名門に生まれたと記録にはあるが——名門であっても故郷はある。子供時代がある。遊んだ野原がある。通った道がある。
「村が一つ——消えました。一晩で」
大司教の声が——僅かに、低くなった。
「災厄が村を覆い、朝になったときには——何も残っていなかった。家も、畑も、人も。井戸すら。瓦礫すら残らなかった。災厄は痕跡ごと呑み込む。まるで——最初から何もなかったように」
大司教の手が——微かに震えた。
一瞬だけ。卓の上で組まれた指が、わずかに白くなった。すぐに止まった。手を組み直し、震えを消した。しかしリーリエはその震えを見た。
「子供の泣き声が聞こえました。災厄の気配に怯えて、近隣の村から逃げてきた子供が。母親に縋りついて泣いている子供が。——あの泣き声を、今でも覚えています」
大司教が顔を上げた。灰色の瞳がリーリエを見た。穏やかさの中に——微かな、微かな翳り。
「二度と——あの惨劇を繰り返さないために。私はこの道を選びました」
沈黙が落ちた。長い沈黙。天幕の布が風に揺れる音だけが聞こえた。
リーリエは——動揺していた。
大司教の功利主義。一人の犠牲で万人を救う。その冷徹な論理の根底に——個人的な喪失があった。故郷を失った男。結界の崩壊がもたらす惨劇を、自分の目で見た男。子供の泣き声を三十年間忘れられない男。
この人は——冷酷なだけではない。
かつて、結界が崩壊した世界を見た。人が死ぬのを見た。村が消えるのを見た。子供が泣くのを聞いた。その恐怖と喪失から、「二度と繰り返さない」と誓った。その誓いが——聖女を犠牲にする道を選ばせた。
正しい動機から、間違った結論に至った人。
いや——「間違った」と断言できるだろうか。結界が崩壊すれば、本当に世界は災厄に蹂躙される。村が消える。人が死ぬ。子供が泣く。それを防ぐために聖女を犠牲にする——その選択は、本当に「間違い」だと言い切れるのか。
「……大司教猊下」
リーリエの声が低くなった。震えはない。しかし重い。
「あなたの痛みは——わかります。結界が崩れた世界を見たのなら、それがどれほど恐ろしいか。二度と繰り返したくないというお気持ちも」
大司教の表情が僅かに変わった。リーリエの言葉を予想していなかったのかもしれない。反発を予想していた。あるいは怒りを。しかしリーリエが返したのは——共感だった。
「でも——だからといって、私を燃料にしていい理由にはなりません」
静かだが、揺るぎのない声だった。
大司教の微笑みが戻った。完璧に。
「ええ。あなたの言い分はわかります」
穏やかな声。しかしそこに——かすかな疲労が混じっていた。三十年間、同じ論理を守り続けてきた男の疲労。あるいは——三十年間、同じ問いに答え続けてきた男の疲労。
「しかし世界は待ってくれません。結界は弱まり続けています。あなたの身体も——限界に近づいているのではありませんか」
紋章の揺らぎ。リーリエの体調の変化。大司教がそれを知っているのか——あるいは推測しているのか。聖女の身体の変化を、遠くからでも察知できる手段を持っているのかもしれない。
「また、お話ししましょう」
大司教が立ち上がった。穏やかな微笑みを浮かべて。
「考える時間は差し上げます。しかし——時間は有限です。世界が待ってくれないように、あなたの身体も待ってくれない」
その言葉を最後に、大司教は天幕の奥に消えた。白い法衣の裾が布の向こうに消えた。
リーリエは一人、天幕に残された。
手が震えていた。大司教の言葉が胸に重い。この人にも痛みがある。故郷を失った痛み。結界の崩壊を恐れる理由。それは——冷酷さではなく、恐怖から生まれた信念だ。恐怖が論理を生み、論理が制度を維持し、制度がリーリエを消費する。
だからといって——許すわけにはいかない。
天幕を出ると、外の光が眩しかった。冬の冷たい風がリーリエの髪を揺らした。涙の痕が頬で乾いていく。
カインが待っていた。
天幕から出てきたリーリエの顔を見て、一瞬で表情が変わった。険しくなった。そしてすぐに——柔らかくなった。
「どうだった」
「……大司教に、会いました」
「知っている。あいつの気配がした」
カインが上着を脱ぎ、リーリエの肩にかけた。黒い上着が、リーリエの白と黒の外套の上に重なった。温かい。カインの体温が残っている。
「あの人にも——痛みがありました」
リーリエがぽつりと呟いた。
カインは何も言わなかった。ただ隣を歩いた。
二人は並んで魔王城に向かって歩いた。冬の風が二人の背中を押していた。大司教の言葉の重さが、リーリエの胸にまだ残っている。単純に「悪人を倒す」では済まないことが——苦しかった。
大司教にも痛みがある。三十年前に封じた感情がある。それを知ったからといって許せるわけではないけれど——単純に憎むこともできなくなった。世界は——思っていたより、複雑だった。




