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魔王は死にたがりの聖女を拾い、今日も溺愛で生かしにかかる  作者: 蒼月よる


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崇高な使命

 大司教の「お伝えしたいこと」は、言葉の形をした刃だった。


「リーリエ様。一つお聞きしたいのですが——ヘルゼンの村をご存知ですか」


 リーリエは首を横に振った。名前に聞き覚えはなかった。けれど大司教が具体的な村の名を出したことで、天幕の空気が変わった。抽象的な「世界」や「結界」ではなく、具体的な場所。具体的な人々の暮らし。大司教は論点を——感情に近づけようとしていた。


「王国の北東、辺境の小さな村です。人口は三百ほど。冬には雪に閉ざされる、静かな場所です。村の中心に古い教会があり、子供たちはその教会の鐘の音で朝を迎えます」


 大司教の声は穏やかだった。世間話のような語り口。風景画を描くような、丁寧な言葉選び。しかしリーリエは警戒していた。この人の穏やかさには——必ず目的がある。


「先月、ヘルゼンの村の近くで結界の綻びが見つかりました。綻びから災厄の気配が漏れ、村の家畜が原因不明の病で次々と死にました。牛が。羊が。鶏が。冬を越すための糧が、目の前で失われていった」


 リーリエの手が、膝の上で握りしめられた。指先が白くなるほど。胃の奥が重く沈んだ。大司教の穏やかな声が、一つ一つの言葉を石のように積み重ねて、リーリエの胸を圧していく。


「村人たちは今、冬の備えを失い、飢えに怯えています。雪に閉ざされた村に、補給はなかなか届きません。子供たちは——泣いているでしょう」


 大司教が視線を一度だけ落とした。悲しんでいるように見えた。


「レスター港町では、結界の不安定化に伴い、海から魔物が上がりました。小さな魔物でしたが、漁船の近くに現れた。漁師が三人、命を落としました。一人は——まだ若い父親でした。幼い娘が残されました」


 幼い娘。


 リーリエの胸の奥で、何かが軋んだ。名前も顔も知らない少女。父親を失った少女。その少女の存在が——リーリエの罪悪感を刺す。


「クロスフェルトの孤児院では、結界の弱体化に怯えた住民が暴動を起こし、建物が半壊しました。『結界が崩壊するのではないか』という恐怖が、人々の理性を奪ったのです。子供たちは今、教会の施設に身を寄せています。安全ではありますが——慣れ親しんだ場所を失いました」


 具体的な地名。具体的な被害。具体的な人の苦しみ。


 大司教は数字ではなく「物語」で語った。村の名前、港町の名前、孤児院の子供たち。それぞれに名前があり、人生があり、苦しみがある。統計ではなく個人の物語として提示することで——リーリエの心に一つずつ突き刺さる言葉の棘。これは弁論の技術だ。数字は人を動かさない。物語が人を動かす。大司教はそれを知っている。


「すべては——結界の不安定化が原因です。そして結界が不安定なのは——」


 大司教が顔を上げた。灰色の瞳がリーリエを見た。穏やかに。慈愛に満ちて。


「聖女が祭壇を離れているからです」


 あなたのせいだ。


 大司教はそう言わなかった。しかし論理の構造は明確にそれを指し示していた。リーリエが魔王城にいる。だから結界が弱い。だから人が苦しんでいる。だから——リーリエが戻れば、苦しみは消える。


「あなたが戻れば、ヘルゼンの村人たちは冬を越せます。レスターの漁師の家族は夫を失わずに済んだかもしれない。クロスフェルトの子供たちは安心して眠れます」


 大司教の声が優しかった。本当に優しかった。心からの慈愛であるかのように。


「あなたが戻れば——もう誰も傷つかない。それが聖女の崇高な使命です」


 崇高な使命。


 リーリエの心が大きく揺れた。


 ヘルゼンの村人たち。レスターの漁師。クロスフェルトの孤児たち。名前も顔も知らない人たちの苦しみが、リーリエの胸を圧した。自分が戻れば——助かる命がある。自分が犠牲になれば——苦しみが消える。その事実の重さに——膝が震えた。


 それは——。


 かつてのリーリエなら「はい」と答えていたかもしれない。あの頃のリーリエなら、何も感じずに「そうですね」と頷いていたかもしれない。死を望んでいた頃なら——むしろ望ましい結末だったかもしれない。死ねて、人も救える。願ったり叶ったり。


 しかし今のリーリエは——揺れている。


 揺れているということは、「はい」と即答しないということだ。迷っている。つまり——戻りたくないという気持ちがある。ここにいたいという気持ちがある。


 その気持ちの存在が——リーリエ自身を苦しめていた。自分がここにいたいと思えば思うほど、人が苦しむ。自分の幸福と他者の苦痛が天秤にかけられている。


 リーリエの手が胸元に伸び、護符を握った。


 温かい。カインの魔力が脈打っている。赤い光が掌の中で揺れている。


 ——お前が戻ったら炉の燃料にされるだけだ。


 ——犠牲じゃない、選択だ。


 カインの声が蘇る。不器用で、ぶっきらぼうで、けれど本質を突く言葉。リーリエが犠牲になることを美化しない言葉。「崇高」でも「尊い」でもなく——「燃料にされる」と、ありのままを言ってくれた言葉。


「崇高な使命、とおっしゃいますが」


 リーリエの声が震えを帯びた。けれど——止まらなかった。


「それは——私に死ねと言っているのと同じです。言葉を変えても、中身は変わりません」


「リーリエ様——」


「私が戻れば結界は安定する。人々は救われる。それは——事実かもしれません。でも、そのために私は命を燃やされて死ぬ。それを『崇高』と呼ぶのは——死を美しく飾っているだけではありませんか」


 大司教の微笑みがわずかに変わった。深くなった。感心するような——あるいは、獲物を値踏みするような。その変化は一瞬で、すぐに穏やかな微笑みに戻った。


「あなたは賢い方ですね。さすがは聖女です」


 その賞賛すら——リーリエには計算に聞こえた。「賢い」と褒めることで相手を油断させる。あるいは「賢いなら、私の論理も理解できるでしょう?」という暗黙の圧力。


「では、もう少しお話ししましょう」


 大司教の微笑みが戻った。穏やかに。冷たく。


 リーリエは踏みとどまった。護符の温もりが掌を支えている。カインの鼓動と同じリズムで脈打つ赤い光。


 大司教の論法はわかった。具体的な犠牲を見せて感情に訴え、罪悪感で追い込む。そして「解決策」として教会への帰還を提示する。古典的な——しかし強力な説得術。


 けれどリーリエは気づいていた。大司教が語る犠牲の物語は全て——聖女制度が存在する世界の中での犠牲だ。「聖女制度そのものが問題だ」という視点は、最初から排除されている。前提を疑わせない。それが、この人の論法の核心だった。


 護符の温もりが掌を支えている。カインの鼓動が、リーリエの鼓動と重なるように脈打っていた。


 けれど本当の対峙は——ここから始まる。


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