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魔王は死にたがりの聖女を拾い、今日も溺愛で生かしにかかる  作者: 蒼月よる


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燃料

 大司教の言葉は美しかった。


 あまりにも美しくて——空虚だった。


「聖女の使命は世界を支えることです。あなたの命が世界の礎になる。それは死ではありません。永遠の昇華です」


 永遠の昇華。


 大司教がその言葉を紡ぐとき、声には荘厳さがあった。教会の大聖堂で聖典を読み上げるような、流れるような韻律。何百回も繰り返してきた言葉なのだろう。滑らかで、迷いがなく、揺るぎない。まるで山の稜線のように——自然であり、動かしがたい。


「歴代の聖女たちは、皆その使命を受け入れました。恐怖を乗り越え、命を捧げ、世界の礎となった。彼女たちの犠牲があったからこそ、今この世界がある。あなたもまた——その系譜に連なるのです」


 系譜。歴代聖女の系譜。リーリエはその言葉に——微かな怒りを覚えた。


 歴代の聖女たちが「使命を受け入れた」と大司教は言う。しかし——本当に受け入れたのか。選択肢があったのか。拒否することが許されたのか。聖女として覚醒した少女に、教会は「拒否する権利」を与えただろうか。リーリエ自身がそうだったように——選択の余地なく、炉の燃料にされたのではないか。


 リーリエは大司教の目を見つめていた。膝の上で組んだ手の指が、微かに痺れている。天幕の空気が重い。没薬の甘い匂いが鼻腔にまとわりつき、頭の芯を鈍くする。


 美しい言葉だった。「永遠の昇華」「世界の礎」「崇高な系譜」。教会の説教のような響き。しかしリーリエは——その言葉の裏側を、見ていた。


 大司教の灰色の瞳。穏やかに微笑む顔。その目の奥に——「人間」への共感が、一切なかった。


 言葉は美しい。論理は精巧だ。しかしこの人は——リーリエを「リーリエ」として見ていない。「聖女」として見ている。聖女という機能。結界を維持する装置。世界を支える構造物の一部。


 人間ではなく——部品として。


 その目を——リーリエは知っていた。教会にいた頃、司祭たちが同じ目をしていた。優しい言葉をかけてくれる司祭たち。しかしその目は——リーリエの体調を気にしているのではなく、「結界の燃料の状態」を確認していた。同じ目だ。大司教の目も、司祭たちの目も。


「……大司教猊下」


 リーリエの声が、天幕の空気を変えた。


 静かな声だった。震えていなかった。かつてのリーリエが持っていた虚ろさもなかった。そこにあるのは——研ぎ澄まされた、一本の刃のような声。鍛え抜かれた刃ではない。もろくて、薄くて、折れるかもしれない。けれど——鋭い。


「あなたにとって私は——人間ではなく、燃料なんですね」


 天幕が凍りついた。


 使節団の顔から血の気が引いた。「燃料」という言葉の生々しさに、彼らは言葉を失った。聖女を「燃料」と呼ぶ。それは——聖女制度の本質を、美しい衣を剥ぎ取って剥き出しにする言葉だった。「崇高な使命」でも「世界の礎」でもなく——「燃料」。その一語が全てを暴いた。


 大司教の微笑みが——一瞬だけ、揺らいだ。


 ほんの一瞬。まばたきよりも短い時間。微笑みの完璧な曲線が、わずかに歪んだ。灰色の瞳の中を何かが走り——消えた。しかしリーリエはその揺らぎを見逃さなかった。大司教の完璧な仮面に、初めてひびが入った瞬間を。


 そしてすぐに——微笑みが戻った。何事もなかったように。完璧に。ひびの痕跡すら残さずに。


「……聖女は世界の礎です」


 大司教の声は穏やかだった。


「それ以上に崇高な存在がありますか?」


 否定しなかった。


 「燃料」という言葉を、否定しなかった。「そんなことはない」と言わなかった。「あなたは人間です」とも。「あなたを燃料とは思っていない」とも。代わりに「世界の礎」と言い換えた。美しい言葉で覆い隠した。しかし——否定はしなかった。


 否定する必要がないと思っているから。


 あるいは——否定できないから。


 リーリエの唇が微かに震えた。歯を噛みしめた。唇の内側に、鉄の味がした。


 リーリエの目に、怒りと悲しみが混在した。


 怒り。この人は全てを知った上で、聖女を消費している。三十年間、三代の聖女を炉に送り、その名前を覚えていながら——感情を封じて「資源」として扱ってきた。


 悲しみ。この人には、リーリエの言葉が届かない。「私は人間です」と叫んでも、この人の耳には「燃料が自己主張をしている」としか聞こえないのだろう。


 天幕の中に沈黙が落ちた。蝋燭の芯が微かに弾け、橙色の光が揺れた。外から風の音が聞こえる。布が翻る音。遠くの篝火の爆ぜる音。


 リーリエと大司教が、互いを見つめていた。


 リーリエの薄い青紫の瞳には、涙は浮かんでいなかった。代わりに——光があった。怒りの光。悲しみの光。そして——それでも退かないという意志の光。


 大司教の灰色の瞳には、変わらぬ穏やかさがあった。嵐の中の湖面のように凪いだ目。その穏やかさこそが——最も恐ろしかった。人間を「資源」と見なす者だけが持てる、究極の冷静さ。


「……お互いの立場は、理解できたようですね」


 大司教がゆっくりと口を開いた。


「しかしリーリエ様。感情で世界は守れません。あなたが『燃料』という言葉を使うのは自由ですが、それで結界が維持されるわけではないのです。言葉を変えても——現実は変わらない」


 巧みだった。リーリエの言葉を受け止めた上で、「しかし現実はこうだ」と返す。感情論を認めた上で、論理で押し返す。大司教の弁論の技は——リーリエが太刀打ちできるものではなかった。


「ご自身の感情と、世界の存続と。どちらが重いか——よくお考えください」


 大司教が微笑んだ。


 リーリエは護符を握りしめた。カインの温もりが掌を温めている。


 燃料。


 その一言が——聖女制度の本質を剥き出しにした。大司教は否定しなかった。否定する必要がないと思っているから。


 それが——この世界の「現実」だった。


 天幕の中に沈黙が落ちた。使節団の記録係が筆を置いたまま、凍りついている。大司教の「燃料」という言葉の余韻が、空気中に漂っていた。没薬の香りと混じり合って——重い。


 リーリエは唇を噛んだ。護符を握る手に力を込めた。赤い光が指の隙間から漏れる。


 燃料。その言葉を否定しない男が、三十年間教会を率いてきた。三代の聖女を炉に送りながら。「崇高」や「昇華」という言葉で飾りながら。本質は——燃料。それを知った上で微笑んでいられる人間が、目の前にいる。


 怖い。手が震えている。背中に冷汗が伝っている。けれど——怖さの中に、怒りが芽生えていた。リーリエの中に、かつてなかった感情。教会にいた頃は、怒りを感じる力すらなかった。今は——怒れる。


 その怒りが——リーリエを、次の言葉へと押し出した。


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