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魔王は死にたがりの聖女を拾い、今日も溺愛で生かしにかかる  作者: 蒼月よる


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大司教の微笑み

 大司教の微笑みは完璧だった。


 天幕の中に没薬の煙が薄く漂っている。その甘い匂いが、リーリエの喉の奥にまとわりつく。蝋燭の炎が微かに揺れ、大司教の白い法衣に柔らかい影を落としていた。


 卓を挟んで向かい合う二人。片や白い法衣の老人。片や白と黒の外套の少女。年齢も立場も経験も——全てにおいて、大司教が上だ。三十年間教会を統べてきた政治家と、二年前に覚醒したばかりの十七歳の少女。天秤にかければ、傾きは明らかだった。


 使節団は沈黙し、天幕の中は大司教とリーリエの対話の場と化していた。記録係の筆だけが羊皮紙の上で音を立てている。


「改めまして——グレゴリウス・ヴァン・オルデンと申します。教会で大司教の任をお預かりしております」


 丁寧な自己紹介だった。まるで街角で知人に挨拶するような軽やかさ。しかしその軽やかさこそが、この男の危険さを物語っている。大司教の地位にある者が、十七歳の少女に対してここまで丁寧に振る舞う必要はない。それはつまり——この丁寧さ自体が、計算の産物だということだ。


 リーリエが教会にいた頃、大司教は姿を見せたことがなかった。聖女の管理は司祭たちが行い、大司教は遠くから糸を引くだけだった。リーリエにとって大司教は「存在は知っているが顔を見たことがない人物」だった。直接対面するのは、これが初めてだ。


「存じ上げております」


 リーリエの声は平静だった。表面上は。教会で培った礼儀作法が、こういうときに盾になる。感情を隠し、丁寧な言葉で武装する。


 しかし内側では——心臓が早く打っていた。この人の前にいると、空気が重い。圧迫感とは違う。むしろ逆だ。大司教の存在は穏やかで、柔らかで、包み込むようですらある。それが——恐ろしい。刃物は見えるから避けられる。しかし毒は見えない。この人の穏やかさは——毒だ。


「リーリエ様。率直に伺います」


 大司教が卓の上で手を組んだ。細く長い指。爪は短く整えられている。書類を扱い慣れた手。紙の端で指を切ったことなどないだろう。その手が——何人もの聖女の命を左右してきた手でもある。書類に署名し、命令書を発行し、聖女を炉に送る手続きを承認してきた手。


「なぜ、教会にお戻りいただけないのですか」


 率直な問い。使節団のような回りくどさはなかった。最初から核心を突いてくる。それが大司教の手法なのだろう。回りくどさは相手に考える時間を与える。率直さは——相手を受け身にする。


「戻れば——炉の燃料にされるからです」


 リーリエも率直に答えた。回りくどさを捨てた。この人に対して婉曲な表現は無意味だ。全てを知っている相手に、言葉を飾る必要はない。


 大司教の微笑みが——一瞬だけ、深くなった。満足そうに。あるいは——感心したように。


「お気持ちはわかります。結界の維持は、確かにお身体に負担をかけます。しかし——」


「負担、ではありません」


 リーリエが遮った。声が強くなった。


「命を燃料にされているのです。私の寿命は削られています。教会に戻れば——いずれ炉に捧げられ、死にます。歴代の聖女たちが全員そうだったように。それを『負担』と呼ぶのは、言葉を飾りすぎではありませんか」


 リーリエの声が天幕の中に響いた。自分の声が、自分のものではないように聞こえた。けれど——確かに、自分の言葉だった。


 天幕の中に緊張が走った。使節団の顔が蒼白になる。「炉の燃料」「死ぬ」——聖女制度の真実を知らない使節たちにとって、リーリエの言葉は衝撃だったのだろう。記録係の筆が止まった。白い髭の代表が口を開けたまま固まっている。


 しかし大司教の表情は変わらなかった。微笑みは完璧に維持されていた。


「……そうですね。率直に申しましょう」


 大司教が微笑みを少し引いた。穏やかさは残しているが、目の温度がさらに下がった。演技を一枚脱いだ。


「聖女の使命は重い。それは事実です。しかし——その使命の重さに見合うだけの意義がある。あなたの命は、世界を支えているのです」


「意義」


「ええ。あなた一人の存在が、何百万の人間の命を守っている。子供が安全に眠れるのも、農夫が安心して畑を耕せるのも——あなたの命が結界を維持しているからです。これほど崇高な使命がありますか」


 崇高。


 その言葉を、リーリエは噛みしめた。


 崇高な使命。美しい言葉だ。教会で何度も聞いた。聖女の覚醒式で。祈りの時間に。司祭たちの説教で。「聖女は崇高な存在だ」「聖女の犠牲は尊い」「聖女は世界を支える柱だ」。何度も聞いた。何度も聞かされた。


 崇高。尊い。柱。


 どの言葉も——リーリエを「人間」として扱っていない。「崇高」は称賛だ。しかし称賛の形で、人間を機能に還元している。


「お帰りいただけますか。リーリエ様」


 大司教が穏やかに問うた。


「あなたが戻れば、戦争は終わります。兵士たちの血が流れることもない。辺境の村の子供たちが泣くこともない。すべてが——元通りになります」


 リーリエの心が揺れた。揺れかけて——護符を握りしめた。


「大司教猊下」


 リーリエの声は静かだった。


「私に死ねとおっしゃっているのですか」


 大司教の微笑みが——わずかに変わった。変わったのは一瞬だけで、すぐに元に戻った。しかしリーリエはその一瞬を見逃さなかった。微笑みの下を、何かが走った。


「……崇高な使命を、そのように表現されるのは残念です」


「崇高な使命と呼べば、死は死でなくなるのですか」


 沈黙が落ちた。


 大司教とリーリエが見つめ合う。灰色の瞳と、薄い青紫の瞳。


「では——もう少しお話ししましょう」


 大司教が微笑んだ。その声は穏やかだった。けれどリーリエには——それが「これからが本番だ」という宣告に聞こえた。


 天幕の外で、風が布を揺らす音がした。冬の風。戦場の風。遠くで篝火が爆ぜる音がする。両軍の兵士たちが停戦の間、互いを警戒しながら待機している。


 リーリエは手を膝の上で握りしめた。掌が汗ばんでいる。膝の上の布地が湿っている。心臓の音が耳の奥で響いている。それでも——顔を上げていた。けれど——声は震えなかった。


 「崇高な使命と呼べば、死は死でなくなるのですか」——自分がそう言えたことに、リーリエ自身が驚いていた。教会にいた頃なら、絶対に言えなかった言葉。あの頃の自分は、司祭たちの前で「はい」と頷くことしかできなかった。疑問すら浮かばなかった。疑問を持つ力が、凍結されていたから。


 今は——違う。カインの隣で過ごした日々が、凍結を溶かした。「お前は道具じゃない」と言ってくれた声が。いびつなパンを「悪くない」と言ってくれた声が。


 大司教の「本番」が何であれ——リーリエは、退かない。


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