穏やかな毒
穏やかな毒は、気づいたときにはもう体の中に回っている。
大司教が天幕に姿を現す前に、使節団の代表が交渉を始めていた。丁寧な物腰。整った言葉遣い。リーリエに対する気遣いの体裁を崩さない、完璧な外交官としての振る舞い。三十年以上教会の外交に携わってきた男の、洗練された話術。
「リーリエ様、まずはお身体のご様子をお伺いしたく存じます。魔王城でのご生活は——お辛くはございませんか」
気遣いの言葉。しかしその裏には「魔王に虐待されていないか」という含みがあった。リーリエを「被害者」として位置づけ、魔王城を「囚われの場所」として印象づける。一見無害な質問の中に、巧みな前提が埋め込まれている。
「ありがとうございます。体調は問題ありません。魔王城での生活は——穏やかです」
リーリエは意識的に「穏やか」という言葉を選んだ。囚われてはいない。虐待されてはいない。穏やかに暮らしている。
使節の目が一瞬だけ揺れた。「穏やか」は想定外の答えだったのだろう。しかしすぐに表情を整え、次の質問に移った。
「それは何よりです。では——本題に入らせていただきます」
使節団の代表が姿勢を正した。声のトーンが一段下がった。
「リーリエ様。あなたが魔王城にいらっしゃることで、多くの人が苦しんでいます」
穏やかな声だった。しかしその一言が、リーリエの胸に刺さった。
「結界が不安定になり、各地で災厄の兆候が増えています。辺境の村では魔物の出現が報告され、港町では原因不明の疫病が広がりつつあります。農地の枯死。家畜の突然死。子供の原因不明の熱病。すべては——結界の弱体化が原因です」
リーリエは知っていた。結界が弱まっていることを。自分が教会の祭壇を離れたことで、炉への命の供給が不安定になっていることを。その影響が世界に出ていることを。聖女の力で結界の状態を感じ取るたびに——世界のあちこちで結界が薄くなっている気配を察していた。
「あなたが教会にお戻りいただければ、結界は安定します。戦争は終わります。人々の苦しみは止まります。すべては——あなた次第なのです」
すべては、あなた次第。
その言葉の構造に、リーリエは気づいた。
これは——「お願い」ではない。「あなたが原因だ」と言っている。戦争も、災厄も、人々の苦しみも、すべてリーリエが魔王城にいるから起きている。つまりリーリエが戻らなければ——それはリーリエの責任だ。
加害者の立場に、巧みに追い込まれている。言葉の上では何も責めていない。事実を述べているだけだ。しかしその事実の提示の仕方が——リーリエを「責任者」に仕立て上げている。
リーリエの胸の中で、罪悪感が頭をもたげた。自分のせいで人が苦しんでいる。それは——事実だ。否定できない事実だ。自分が祭壇に戻れば結界は安定し、人々は救われる。それも——事実だ。
揺れた。
揺れかけて——踏みとどまった。
「……私が戻れば、全て解決する。そうおっしゃるのですね」
「おっしゃる通りです。聖女様のお力があれば——」
「でも」
リーリエの声が、使節の言葉を遮った。穏やかに。しかし明確に。
「私が戻れば全て解決する——そう言うとき、あなたたちは私を人間として見ていませんよね」
天幕の空気が変わった。使節団の記録係の筆が止まった。
使節団の代表が一瞬、言葉に詰まった。まばたきが一つ多かった。
「道具として見ている。結界を維持するための——部品として」
「そ、そのようなことは——」
使節が否定しようとした。声がわずかに上擦った。動揺している。リーリエの言葉が予想外だったのだ。「洗脳された聖女」ではなく、自分の頭で考え、自分の言葉で反論する聖女。それは使節団の想定になかった。
その口が開きかけたとき。
天幕の奥から、声がかかった。
「素晴らしい観察力ですね、リーリエ様」
穏やかな声。使節たちよりもはるかに穏やかで——はるかに冷たい声。水面の下に沈んだ氷のような声。
リーリエの手が、無意識に胸元の護符を握った。カインの魔力が温かく脈打つ。
天幕の奥の布が持ち上がり、一人の男が姿を現した。白い法衣。灰色の髪を後ろに撫でつけた、痩身の老人。胸には大司教の紋章が輝いている。細く長い指。穏やかな微笑み。
使節団が一斉に立ち上がり、頭を垂れた。
「グレゴリウス猊下——」
大司教が穏やかに手を振り、使節たちを座らせた。自らも卓の向こう側に座り、リーリエと向かい合った。
灰色の瞳が、リーリエを見た。
穏やかだった。温かいとさえ言える微笑みだった。しかしリーリエは——その目の奥に、使節たちとは異質な何かを見た。温度のない光。感情を排除した知性の光。世界を数字で捉える目。
「お会いできて光栄です、リーリエ様」
大司教の声は柔らかかった。
「直接お顔を拝見するのは久しぶりですね。魔王城でのご様子はいかがですか。お身体は——結界の負担が、お辛いのではありませんか」
結界の負担。
リーリエの目が鋭くなった。
使節たちは「身体の調子はどうか」と聞いた。一般的な気遣いとして。しかし大司教は「結界の負担」と言った。聖女の力が命を燃料にしていることを、知っている。当然だ。大司教は——全てを知った上で、聖女制度を維持してきた人間だ。三十年間。三代の聖女を炉に送りながら。
「あなたは——全てをご存知なのですね」
リーリエの声が低くなった。
「聖女の、本当の意味を」
大司教の微笑みが変わらなかった。
「ええ、もちろん。だからこそ——あなたの苦しみを理解できるのです」
理解。
その言葉を聞いたとき、リーリエの中で何かが冷たく凍った。
この人は「理解している」と言った。聖女の苦痛を。命を削られ続ける痛みを。それを「理解」した上で——三十年間、聖女を炉に送り続けてきた。
それは「共感」ではない。「管理」だ。
苦痛を理解し、計算し、制御し、利用する。それがこの人の「理解」の正体だ。
リーリエの手の中で、カインの護符が温かく脈打っていた。一人じゃない。この人の言葉に呑まれてはいけない。
大司教の微笑みは——穏やかだ。しかしその穏やかさの下に、リーリエは「人間」への共感を一切見なかった。
天幕の中の空気が重い。香の匂いがする。教会の祭壇で焚かれるのと同じ——没薬の香り。リーリエの記憶に刻まれた匂いだ。祭壇の前で命を削られながら嗅いだ、あの匂い。
没薬の香りが、リーリエの過去を呼び覚まそうとしていた。苦痛の記憶。終わらない灼熱。「聖女の試練です」と微笑む司祭たちの顔。
けれど——護符の温もりが、過去の亡霊を退けた。今のリーリエは、あの頃の自分ではない。
大司教との対話は——まだ、始まったばかりだった。




