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魔王は死にたがりの聖女を拾い、今日も溺愛で生かしにかかる  作者: 蒼月よる


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使節の顔

 足が震えていた。


 中立地帯に張られた白い天幕。教会軍と魔族軍の中間点に、その天幕は建てられていた。白い布が風に揺れている。入口には教会の紋章が縫い取られた垂れ幕。金糸で織られた聖印が、冬の光を受けて鈍く輝いていた。天幕の周囲には松明が立てられ、地面には敷物が敷かれている。「聖女を迎える場」として整えられた空間だった。


 リーリエは天幕に向かって歩いていた。


 一人で。


 護衛はいない。カインの見えない護衛が周囲に配置されていることを、リーリエは知らない。知っているのは——胸元にカインの護符があること。フィルがくれた青い石がポケットにあること。マリカが仕立ててくれた外套が肩にあること。


 それだけだった。


 足が震えている。


 膝が笑いそうだ。心臓が早い。喉が渇く。掌が汗ばんでいる。風が冷たいのに、額に汗が滲む。恐怖だ。教会は——リーリエにとって、かつての「牢獄」だった。二年間、命を削られ続けた場所。痛みの記憶が刻まれた場所。その教会の人間と向かい合おうとしている。


 それでも——止まらなかった。


 一歩。また一歩。石だらけの荒れ地を踏みしめて、リーリエは前に進んだ。白と黒の外套が風にはためく。銀灰色の髪が流れる。冬の光の中を歩く小さな影。遠くから見れば、それは一幅の絵のようだったかもしれない。荒野を一人で歩く、小さな少女。


 けれどその足取りには——決意があった。


 かつてのリーリエなら、この道を歩くことはなかっただろう。あの頃は何もかもがどうでもよかった。教会に連れ戻されても構わなかった。「好きにしてください」と言って、目を閉じていただろう。


 今は違う。


 自分の足で歩いている。自分の意志で。怖くても。震えても。


 背後で——カインがその姿を見守っていた。


 城壁の上に立ち、腕を組み、リーリエの歩みを追っている。拳が白くなるほど握りしめられていた。剣の柄に手がかかっている。何かあれば、一瞬で城壁を飛び降りて駆けつける態勢。


「……行けるのか、あいつは」


 呟いた。声が掠れていた。


 リーリエの足が震えていることは、この距離からでもわかった。怖いのだ。当然だ。教会は彼女を「燃料」として扱ってきた場所で、大司教は彼女を「資源」と見なす男だ。そこに一人で乗り込むのだ。怖くないわけがない。


 それでも止まらない。一歩ごとに前に進んでいる。その歩みは遅いが——確かだ。


 カインの脳裏に——一瞬だけ、別の姿が重なった。五百年前。白い聖衣を纏い、炉に向かって歩いていく背中。あの日も——同じように見送った。止められなかった。止めようとしたが。


 首を振った。振り払った。


 違う。あのときとは違う。あのとき、彼女は死に向かって歩いていた。今リーリエが向かっているのは——生きるための戦いの場だ。交渉の場だ。言葉という武器で戦う場だ。


 リーリエの足取りが、少しだけ安定した。恐怖に慣れたのか、覚悟が固まったのか。背筋がまっすぐになった。


「……行けるな」


 カインの口元が微かに緩んだ。ほんの一瞬。しかし——確かな笑みだった。信頼の笑み。


 天幕の入口に、リーリエが到着した。


 入口の前で一度だけ、深呼吸をした。冷たい空気が肺を満たす。胸元の護符に手を当てた。黒い石の中のカインの魔力が、温かく脈打っている。


 一人じゃない。


 もう一度、深呼吸した。


 リーリエは天幕に入った。


 中は広かった。白い布の天井。地面には厚い敷物が敷かれ、中央に長い卓が置かれている。卓の上には銀の杯と水差し。教会の客間を模した設えだ。


 卓の向こう側に——教会の使節団が座っていた。


 五人。いずれも教会の高位聖職者の法衣を纏い、胸には教会の紋章。先頭に座る男が使節団の代表だろう。白い髭を蓄えた壮年の司祭で、穏やかだが隙のない目をしていた。その隣には記録係と思しき若い聖職者が羊皮紙と筆を構えている。


 使節団が——リーリエを見た。天幕の中は没薬と蝋燭の匂いが充満していた。教会の匂い。あの聖堂と同じ匂い。リーリエの胸の奥で、記憶が軋んだ。


 その目が微かに揺れた。


 彼らは「洗脳された聖女」を想像していた。魔王に囚われ、正気を失い、操り人形のように虚ろな目をした少女を。大司教からの事前説明では「聖女は魔王の影響下にあり、正常な判断ができない状態」と伝えられていたはずだ。


 しかし目の前のリーリエは——穏やかだが強い意志を持った目をしていた。背筋がまっすぐで、怯えているが逃げない。聖女の紋章が胸元で静かに光っている。


 使節の一人が隣の者に耳打ちした。声を潜めているが、リーリエの耳にかすかに届いた。


「本当に……洗脳されているのか?」


 リーリエは卓の前に立った。手を前で組み、使節団に向き合った。


「リーリエです。対話の場を設けていただき、ありがとうございます」


 声は落ち着いていた。教会で育った丁寧な話し方。司祭たちに敬語で応対する習慣が、こういう場では役に立った。しかしその奥に——教会にいた頃にはなかった何かが宿っていた。自分の言葉で、自分の意志で、話す力。


 使節団の代表が立ち上がった。


「聖女リーリエ様。お元気そうで何よりです。我々は——」


 その言葉が終わる前に、天幕の奥の布が揺れた。


 誰かが奥から入ってくる気配。重くはない。足音も穏やかだ。しかし——その気配が天幕に入った瞬間、空気の質が変わった。使節団の代表の顔色が変わった。姿勢を正し、頭を垂れる。他の使節たちも慌てて席を立ち、頭を下げた。


 天幕の奥から——新たな影が現れた。


 リーリエは、その影を見た。


 白い法衣。灰色の髪。穏やかな微笑み。


 しかしリーリエの背筋に——冷たいものが走った。腕の産毛が逆立つのを感じた。身体が先に気づいていた。頭よりも早く。


 直感だった。論理ではなく、身体が警告している。聖女の力が——この人物の周囲に異質な気配を感じ取っている。穏やかなのに、冷たい。微笑んでいるのに——目が笑っていない。


 リーリエは自分の「目が笑っていない笑み」を知っている。鏡で見たことがある。この人の笑みは——それと同じだ。


 天幕の奥に——大司教の影が立っていた。


 リーリエの手が無意識に胸元の護符を探った。カインの魔力が温かく脈打っている。赤い光が指の隙間から漏れた。一人じゃない。ここにいるのは一人だけど——護符の向こうに、カインがいる。フィルの青い石がポケットにある。マリカの外套が肩にある。


 大丈夫。大丈夫だ。


 掌の中で護符が温かく脈打っている。その温もりが、冷えた指先に少しずつ血を戻してくれる。


 リーリエは——手を下ろし、背筋を伸ばした。大司教の「目が笑っていない笑み」に、正面から向き合う覚悟を決めて。


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