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魔王は死にたがりの聖女を拾い、今日も溺愛で生かしにかかる  作者: 蒼月よる


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停戦の旗

 白い旗が立った。


 魔王城の城門から、一人の使者が歩き出した。手には白い布を結んだ槍。停戦の印。万国共通の約束。戦場においてこの旗を掲げる者に手を出すことは、最も卑劣な行為とされる。教会軍であっても——表向きは——この約束を破ることはできない。


 使者はリュカが選んだ魔族の若者で、度胸があり、足が速い。万が一のときに逃げ切れる者。リュカが「こいつなら大丈夫っす。俺が鍛えましたから」と太鼓判を押した相手だ。


 使者が教会軍の前線に到達した。白い旗を高く掲げ、朗々と声を上げた。


「聖女リーリエ様が、直接の対話を望んでおられます」


 その一言は、戦場を凍りつかせた。


 教会軍の前線指揮官が使者を見つめ、数秒の沈黙の後、「待て」と部下に命じた。白い旗の使者に手を出す者はいなかった。しかし誰もが驚いていた。聖女が自ら対話を望んでいる。洗脳されているはずの聖女が——自分の意志で。


 伝令が走る。後方の本陣へ。


 前線の戦闘が——止まった。剣を振り上げていた兵士が腕を降ろし、聖術を唱えかけていた聖職者が詠唱を止めた。奇妙な静寂が戦場を覆った。


 魔王城の展望台から、リーリエはそれを見ていた。剣と剣がぶつかる音が途切れ、怒号が消え、代わりに不気味な静寂が戦場を覆った。


 私の言葉で——戦場が動いた。


 風が止んでいた。さっきまで外套を揺らしていた冬の風が、まるで息を潜めたように凪いでいる。


 その手応えに、リーリエの指先が震えた。恐怖ではない。自分の行動が現実に影響を与えたことへの、慣れない感覚だった。ずっと「何もかもどうでもいい」と思っていた。自分の言葉も、行動も、存在すらも。それが——今、戦場を止めた。


 教会軍の本陣。


 伝令を受けた司令官が、天幕の奥に控える大司教に報告を上げた。


「聖女が自ら対話を望んでいるとのことです。大司教猊下、いかがいたしましょう」


 大司教——グレゴリウス・ヴァン・オルデンは、天幕の中で書簡に目を通していた。各地の結界の観測報告。辺境の村からの被害報告。世界各国の情勢分析。大司教は戦場にいながら、教会全体の管理を続けていた。報告を聞いて、ゆっくりと顔を上げた。


 穏やかな笑みが浮かんだ。灰色の瞳に、満足の光。


「やはり——あの聖女は、優しすぎる」


 灰色の瞳が、笑みとは裏腹に冷たく光った。


「自分から出てきてくれるとは。結構なことです。人が傷つくのを見ていられない性分なのでしょう。自己犠牲の傾向がある聖女は——扱いやすい」


 司令官が指示を仰ぐ。


「停戦を受諾いたしますか」


「ええ、もちろん。聖女の対話の申し出を拒否すれば、こちらの大義名分が揺らぎます。——中立地帯に天幕を設けてください。交渉の場を用意しましょう。白い布を使って。清潔で、格式のある場を」


 大司教は書簡を畳み、立ち上がった。白い法衣の裾が石畳に流れる。


「聖女を迎える準備を。丁重に——丁重に、ですよ。我々は聖女を害する敵ではなく、聖女を迎えに来た味方です。その姿勢を崩してはなりません」


 穏やかな声。しかしその奥に走る冷たい計算を、この場の誰も読み取れなかった。大司教の指先が書簡の端を撫でた。紙が乾いた音を立てた。蝋燭の灯りが灰色の瞳に映り込んでいる。司令官が「承知いたしました」と頭を下げ、天幕を出ていった。


 大司教は一人になった天幕の中で、窓布の隙間から魔王城を見つめた。


「カイン。五百年前のお前は、聖女を止めた。——今のお前は、聖女を行かせるのか」


 独り言は穏やかだった。しかしその穏やかさには——研ぎ澄まされた刃のような鋭さがあった。


 魔王城。


 リーリエは交渉に向かう準備を始めていた。


 マリカが白い外套を持ってきた。「せめてこれを」と。聖女の聖衣ではない。魔王城で過ごすうちに身に馴染んだ、黒い裏地に白い表地の外套。マリカが仕立て直してくれたものだ。教会の白でもなく、魔王の黒でもない——その中間の色。どちらにも属さない、リーリエ自身の色。


 リーリエはそれを羽織った。布地が肩に馴染む。軽くて温かい。


 広間では従者たちが心配そうに見守っていた。フィルが「リーリエ様、気をつけて」と小さな声で言い、リーリエの手に小さな青い石を握らせた。「お守りです」と。リーリエが微笑んで受け取ると、フィルの目が潤んだ。マリカが唇を噛みながら「必ず帰ってきてくださいね」と言った。


「行ってきます」


 リーリエが微笑んだ。目が笑っている——完全ではないが、以前よりも。この城の人たちに向ける笑みには、少しずつ温度が戻り始めていた。


 城門に向かう廊下で、カインが待っていた。


 壁にもたれて腕を組み、リーリエが来るのを待っていた。その手に——小さな護符があった。銀の鎖に吊り下げられた、黒い石。石の中で微かに赤い光が脈打っている。


「持っていけ」


 ぶっきらぼうな声だった。けれどその声が微かに掠れていたことに、リーリエは気づいていた。


 カインが護符をリーリエに差し出した。


「俺の魔力を込めてある。何かあれば、それを握れ」


 リーリエが護符を受け取った。石は温かかった。カインの手の温もりが残っている。掌に載せると、赤い光が微かに脈打った。カインの鼓動と同じリズムで。


「握ったら——どうなるのですか」


「すぐに行く」


 短い言葉。しかしそこに込められた意味は——どこにいても、何があっても、必ず駆けつけるという誓い。距離も敵も関係ない。握れば、行く。


 リーリエは護符を首にかけた。黒い石が胸元で揺れる。聖女の紋章のすぐ近く。白銀の光と赤い光が、隣り合って脈打った。聖なる力と、カインの力。二つの光が胸元で並んでいる。


「ありがとうございます」


「……行くなら行け。気が変わらないうちにな」


 カインが視線を逸らした。耳の先がわずかに赤い。


 リーリエは城門を出た。門の敷居を跨いだ瞬間、足元の感触が変わった。城の中の滑らかな石畳から、戦場の荒れた大地へ。靴底に小石が当たり、冬の乾いた土の匂いが鼻を突いた。


 中立地帯に向かう道。両軍の兵が遠巻きに見守る中、白と黒の外套を纏った聖女が一人で歩いていく。冬の風がリーリエの銀灰色の髪を揺らした。


 停戦の旗が立った。


 中立地帯への道は荒れていた。戦闘で抉れた地面。折れた矢。血の跡。戦場の痕跡が、リーリエの足元に散乱している。それでも——歩いた。一歩ごとに、戦争の現実を踏みしめながら。


 風が強くなった。外套が翻り、銀灰色の髪が顔にかかる。リーリエは髪を耳の後ろに押さえ、前を向いた。白い天幕が——見えてきた。


 リーリエは教会と向き合う。しかし大司教は——最初からリーリエが来ることを望んでいた。


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