表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
魔王は死にたがりの聖女を拾い、今日も溺愛で生かしにかかる  作者: 蒼月よる


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

141/181

信じるということ

 一晩、眠れなかった。


 カインは自室の椅子に座ったまま、朝を迎えた。机の上には手つかずの古文書。窓の外には白み始めた空。教会軍の陣地から朝靄が立ち上り、篝火が一つずつ消えていく。鳥の声がない。冬の朝は静かだ。戦場の朝は、もっと静かだ。


 リーリエを交渉に行かせるか。


 行かせれば危険だ。教会は——大司教は、リーリエを取り戻すためなら手段を選ばない。交渉の場で拘束される可能性。聖術で意識を奪われる可能性。心理的に追い詰められ、自ら戻ると言わされる可能性。最悪の場合——連れ去られる。


 しかし行かせなければ。


 戦争は続く。魔族の兵は減り続ける。昨日の戦闘で三人が重傷を負い、二人が軽傷。カイン一人の力では、教会軍の物量を永遠には支えられない。遠からず——防衛線は破られる。


 そしてリーリエは——自分で行くと言った。


 あの目。薄い青紫の瞳に宿った決意。あの目は——五百年前に見た目と同じだった。


 同じ。


 カインは目を閉じた。五百年前。初代聖女が「私が行く」と言ったとき、カインは止めた。力ずくで止めた。彼女の手を掴み、行くなと言った。それでも彼女は行った。カインの手を振り払い、微笑んで、炉に歩いていった。そして——帰ってこなかった。


 あのとき、止めたのは正しかったのか。止められなかったのだから、止めたとは言えない。しかし——止めようとしたことは、正しかったのか。彼女の意志を尊重せず、力で抑え込もうとしたことは。


 止めても行く。


 止めても行く人間を——止め続けることは、守ることなのか。それとも——支配なのか。


 ならば——止めるのではなく。


 信じるしかない。


 目を開けた。窓の外が明るくなっていた。朝日が雲の間から差し、教会軍の白銀の旗が光を受けて輝いている。


 朝の広間。


 暖炉の火が低く燃えている。薪の爆ぜる音が、妙に大きく聞こえた。窓から差す朝日は白っぽく、冬の光には温もりがない。


 リーリエと従者たちが集まっていた。昨夜の議論の続き。誰もがカインの答えを待っていた。マリカが手を組んで祈るような姿勢をしている。フィルがリーリエの袖をぎゅっと握っている。ヴェルナーが腕を組み、静かにカインを見ている。リュカだけが——カインの表情を、じっと読んでいた。


 カインが口を開いた。


「交渉を許可する」


 その声は低かった。一晩の葛藤を飲み込んだ声。窓の外で風が唸り、暖炉の炎が一瞬大きく揺れた。


 広間にざわめきが走った。マリカが「カイン様!」と声を上げ、ヴェルナーが眉を寄せた。フィルがリーリエの袖を強く握り、「リーリエ様……」と不安そうに呟いた。


「ただし条件がある」


 カインの声は低く、揺るぎがなかった。


「俺の目の届く範囲で行う。交渉の場は中立地帯に設定し、俺が近くで待機する。何かあれば即座に引く。——それが約束だ」


 広間が静まった。


 リーリエが立ち上がった。


「ありがとうございます」


 深く、頭を下げた。銀灰色の髪が肩から流れた。胸の奥が震えていた。許可が出た安堵ではない。カインが——自分を信じてくれたことへの、言葉にならない感情だった。


 カインが視線を逸らした。窓の外を見た。


「……礼を言うな。お前が危なくなったら問答無用で連れ戻す。それは承知の上だ」


「はい」


 リーリエが顔を上げた。その口元に——微かな笑みが浮かんでいた。ふっと力が抜けたような笑み。目尻が——ほんの少しだけ、下がっている。


「それでいいです」


 その笑みを見たとき、リュカの耳がぴんと立った。何かを感じ取ったのだろう。にやりと笑いかけて——飲み込んだ。今はそういう場面ではないと——空気を読む天才は知っていた。


 広間が解散した後。


 カインはリュカとヴェルナーだけを残した。


「二人に密命がある」


 カインの声が変わった。広間での「許可した側」の声から、「作戦を練る指揮官」の声に。深紅の瞳が鋭くなる。


「交渉中、リーリエの周囲に見えない護衛を配置しろ。リーリエには気づかれるな」


 ヴェルナーが頷いた。「精鋭を三名。姿隠しの術が使える者を。天幕の外に配置し、内部の気配を常に監視します」


「リュカ。お前は天幕の外に伏せろ。何かあれば——俺に知らせろ。知らせる前に動いていい」


 リュカが真面目な顔で「了解っす」と答えた。いつもの軽さはなかった。琥珀色の瞳が真剣だった。


「……旦那様」


 リュカが一瞬、口を開きかけた。


「何だ」


「お嬢を——信じたんすね」


 カインは答えなかった。窓の外を見た。朝の光が広間の石の床に四角い模様を作っている。


 カインの手が剣帯に触れていた。無意識の仕草だった。剣に触れることで——何かを確かめているような。


「行かせたくない。今でもそう思っている。だが——」


 言葉が途切れた。長い沈黙。五百年の重さを持つ沈黙。


「あいつが自分で決めたことを、俺が奪う権利はない」


 リュカが微かに笑った。いつもの軽薄な笑みではなく——深い、静かな笑み。


「旦那様がそう言うの、初めてっすね。俺が仕えて数十年、一度も聞いたことなかったっすよ」


 リュカの琥珀色の瞳が潤んでいた。それを隠すように、窓の外に視線を逸らした。


「……うるさい」


 カインが部屋を出た。足音が廊下に消えていく。


 残されたリュカとヴェルナーが顔を見合わせた。


「変わったのは——お嬢だけじゃないですな」


 ヴェルナーが静かに言った。白い髭を撫でながら。


「旦那様も——変わった。お嬢のおかげで」


 リュカが窓の外を見た。朝日が眩しい。


 信じた。リーリエの意志を。リーリエの強さを。


 それはカインにとって——五百年で初めてのことだった。誰かの選択を尊重すること。止めるのではなく、見守ること。「守る」の形を変えること。


 それでも——剣の柄からは手を離さない。


 信じた上で、それでも守る。


 それがカインの不器用な愛情の形だった。


 窓から差す朝日が、広間の石床に長い四角形の光を落としていた。リュカは天幕の外に伏せる任務の準備を始めた。ヴェルナーは精鋭三名の選定に取りかかった。


 カインは一人、廊下を歩いた。リーリエの部屋の前を通り過ぎるとき——一瞬、足が止まった。扉は閉じている。中から物音はない。まだ眠っているのだろう。


 行かせたくない。今でも。


 けれど——止める権利は、俺にはない。


 カインは拳を握り、廊下の先へ歩いていった。足音は重い。けれど迷いはない。朝日が窓から差し込み、黒い外套に金色の光が差した。石壁の廊下に、カインの長い影が伸びていた。五百年前に果たせなかった「見守る」という選択を——今度こそ、果たすために。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ