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魔王は死にたがりの聖女を拾い、今日も溺愛で生かしにかかる  作者: 蒼月よる


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私が行く

 翌朝、リーリエは魔王城の広間に立っていた。


 広間にはカインと従者たちが集まっていた。石造りの広間に朝の光が差し込み、壁にかけられた地図を照らしている。教会軍の包囲網を示す地図。赤い印が城の周囲をぐるりと囲んでいる。


 ヴェルナーが戦況の報告を行っていた。冷静な声。「東の防壁は補修が完了。しかし西側の城壁に亀裂が入り始めています」。リュカが偵察の結果を伝えた。「南の森に新しい陣地が見えた。増援がまた来てるっすね」。マリカが物資の残量を確認した。「食料は二週間分。薬草はあと五日分です」。


 日に一度の軍議。この場でリーリエは通常、聞き手に回っている。結界の状態を聞かれたときだけ答え、あとは静かに椅子に座っている。自分は戦えない。作戦を立てる知識もない。ここでは——聞いているだけ。


 今日は——違った。


「提案があります」


 リーリエの声が広間に響いた。


 全員がリーリエを見た。ヴェルナーが報告の手を止め、リュカが耳をぴんと立て、マリカが目を丸くした。フィルが水差しを持ったまま固まった。カインの深紅の瞳が、リーリエに固定された。


「私が——教会と直接、話をしたい」


 広間が凍りついた。


 数秒の沈黙。マリカの持っていた帳面がぱたりと膝に落ちた。


 それを破ったのはヴェルナーだった。


「リーリエ様、それは——危険すぎます」


「リーリエ様を教会に差し出すようなものです!」


 マリカが声を上げた。普段は穏やかなマリカの声が裏返っていた。リュカが腕を組み、「いや、お嬢——それはちょっと」と眉を下げた。フィルが不安そうにリーリエを見つめている。


 リーリエは動じなかった。


 昨日の医務室で見たもの。傷ついた兵士たち。涙を流す若い魔族。「聖女様」と呼んだ声。あの光景が——リーリエの背骨を支えていた。


「教会が求めているのは私です。戦争の目的は、私を連れ戻すこと。ならば——私が直接話せば、少なくとも話し合いの場は作れます。無駄な戦いを止められるかもしれない」


「かもしれない、では賭けが大きすぎる」


 ヴェルナーの声は冷静だったが、その奥に心配が滲んでいた。ヴェルナーは感情を表に出さない男だ。その男の声に感情が滲むということは——それだけリーリエの提案が危険だということだ。


「教会がリーリエ様を交渉の場で拘束する可能性は?」


「あります。けれど——このまま戦い続ければ、もっと多くの人が傷つきます」


 リーリエの視線が、昨日の医務室を思い出していた。腹を裂かれた兵士。涙を流す若い魔族。「聖女様」と呼んだあの声。包帯を巻く自分の手に宿った微かな光。


「私はずっと——守られるだけでした」


 リーリエの声が低くなった。


「教会にいたときも、ここに来てからも。誰かが私のために傷ついて、私は何もしない。崖から落ちたときはカインさんに拾われて。教会が来たときは皆さんに守られて。ずっと——ずっと、誰かの後ろに隠れていた」


 広間が静まった。


「それは——もう嫌です。私の声で止められる戦いがあるなら、行きたい」


 リーリエの声は小さかった。しかし——芯があった。震えてもいなかった。かつての、何もかもがどうでもよさそうだった少女の声とは、まったく別のものだった。


 カインが口を開いた。


「駄目だ」


 即答だった。迷いのない、短い否定。腕を組んだまま、壁にもたれた姿勢を変えずに。


 リーリエがカインを見た。


「なぜですか」


「危険だからだ」


「このまま戦い続けても危険です」


「それは俺が何とかする」


「カインさん一人に背負わせたくない」


 カインの言葉が——止まった。


 広間の空気が変わった。従者たちが息を呑む。リーリエがカインに対して、真正面から意見をぶつけている。「好きにしろ」と言い放つ魔王に、「嫌です」と返す聖女。半年前なら——いや、数ヶ月前ですら、ありえなかった光景だ。


 カインが立ち上がった。壁から背を離し、まっすぐにリーリエを見た。


「——場を変える」


 リーリエに視線を送り、広間を出た。リーリエが後を追う。従者たちが顔を見合わせたが、誰も後を追わなかった。リュカがフィルの頭にぽんと手を置き、「大丈夫だよ」と囁いた。


 廊下を歩き、カインの部屋に入った。


 扉が閉まる。二人きりになった。


 カインが窓際に立ち、背を向けたまま口を開いた。


「本気か」


「本気です」


「教会に捕まるかもしれない」


「わかっています」


「大司教が出てくるかもしれない。あの男は——危険だ。言葉で人を追い詰める。お前の自己犠牲の傾向を利用してくる」


「それでも」


 リーリエは一歩、前に出た。


「私は聖女です。教会が求めているのは私。だから——私の言葉が、一番届くはずです」


 論理としては正しかった。教会軍の目的はリーリエの「救出」だ。リーリエ自身が「救出は不要だ」と表明すれば、教会の大義名分は揺らぐ。少なくとも——交渉のテーブルにはつける。


 カインは窓の外を見つめたまま、長い沈黙を保った。


 その背中を、リーリエは見つめていた。広い背中。いつもリーリエの前に立って、剣を振るう背中。この人はずっと一人で戦ってきた。五百年間。誰にも頼らず。誰にも助けを求めず。全てを自分の肩に載せて。


 その孤独を——もう一人に背負わせたくない。


「カインさん」


「……何だ」


「あなたが反対する理由は——私の安全ですか。それとも、私を信じられないからですか」


 カインの肩が僅かに動いた。


 長い沈黙があった。窓の外で風が鳴っていた。教会軍の陣地から微かに角笛の音が聞こえる。


 やがてカインが——振り返った。深紅の瞳がリーリエを捉えた。その瞳の中に、怒りはなかった。苛立ちもなかった。あるのは——葛藤だった。守りたいという感情と、信じたいという感情が、せめぎ合っていた。


「……お前が危ない目に遭うのが嫌だ」


 それは——理由の説明ではなく、本音だった。


 不器用な、飾りのない、むき出しの本音。「世界のため」でも「贖罪のため」でもなく——「お前が危ない目に遭うのが嫌だ」。カイン個人の、剥き出しの感情。


 リーリエの心臓が跳ねた。カインの言葉に込められたものの重さに、頬が熱くなった。守りたい。危険な目に遭わせたくない。その感情の純粋さに——胸が痛い。嬉しくて、苦しい。


「……ありがとうございます」


 リーリエは微かに笑った。ふっと力の抜けたような笑み。


「でも——それでも、行きたいです」


 カインは答えなかった。


 窓の外で、教会軍の篝火が揺れている。明日もまた戦闘がある。また誰かが傷つく。また誰かの血が流れる。


 リーリエは「行く」と言った。カインはまだ「行かせる」とは言えない。


 答えは——次の朝に。


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