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魔王は死にたがりの聖女を拾い、今日も溺愛で生かしにかかる  作者: 蒼月よる


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戦場の報せ

 血の匂いがした。


 魔王城の医務室は、もともと城の従者たちが軽い怪我を治す程度の小さな部屋だった。薬棚と寝台が二つ。壁には乾燥させた薬草の束がかけられ、窓辺には軟膏を入れた陶器の壺が並んでいる。マリカが丁寧に管理してきた、小さくとも清潔な部屋。


 それがこの三日間で、戦場と化していた。


 寝台は足りない。廊下にまで負傷者が溢れ、布を敷いた石の床に魔族の兵士たちが横たわっている。腕を失った者。腹を裂かれた者。聖術の焼灼で皮膚を焼かれた者。呻き声が重なり合い、血と汗と薬液の匂いが混ざった空気が部屋を満たしていた。マリカが走り回り、ヴェルナーの指示で従者たちが治療に当たっていた。フィルが水桶を運び、リュカが包帯を千切る。全員が動いていた。


 リーリエは——見ていられなかった。


 廊下の角から医務室の様子を見ていた。入るなとは言われていない。しかし入る勇気がなかった。自分に何ができるのか。聖女の力は結界を維持するためのもので、治療の力ではない。ここに入っても——邪魔になるだけかもしれない。


 兵士の呻き声が聞こえた。若い声だった。


 リーリエの足が動いた。


「私にも何かできます」


 医務室の入口に立ったリーリエが言った。マリカが振り返る。額に汗が浮き、白い前掛けに血の染みがついている。


「リーリエ様、ここは——」


「お願いします。見ているだけは、もう嫌です」


 リーリエの声は静かだったが、揺るぎがなかった。以前の「何もかもどうでもいい」とは真逆の声。この場に関わりたい。役に立ちたい。その意志が——声に芯を通していた。


 マリカは一瞬躊躇し、それから頷いた。「では——包帯を換えるのを手伝ってください」


 リーリエは医務室に入った。


 血と汗と薬液の匂いが濃い。石の床に横たわる兵士たちの顔は苦痛に歪み、呻き声が部屋の空気を震わせている。リーリエは膝をつき、一人の兵士の傍に座った。


 腹に深い傷を負った魔族の兵士だった。若い。リュカと同じくらいの外見年齢で、尖った耳が痛みに伏せられている。汗に濡れた額。食いしばった歯。必死に声を殺している。


「包帯を換えますね」


 リーリエが古い包帯を外し、傷口を確認する。深い。内臓には達していないが、出血が多い。リーリエの手が傷口に触れたとき——微かな光が灯った。


 聖女の力だった。


 リーリエの力は結界を維持するためのものであり、戦闘向きでも治療向きでもない。しかし聖なる力の本質は「守る」ことだ。命を削って世界を守る——その力の端末が、目の前の傷に微かな癒しをもたらした。白銀の光がリーリエの掌から傷口に滲み、傷の周囲の組織が僅かに修復された。


 傷口が、ほんの少しだけ塞がった。


 完全には治らない。出血が緩やかになった程度だ。けれど——兵士の顔から苦痛の色が薄れた。食いしばっていた歯が緩み、荒い呼吸が少しだけ落ち着いた。


「聖女……様……」


 兵士が目を開けた。琥珀色の瞳に涙が溢れている。


「ありがとう……ございます……」


「ごめんなさい」


 リーリエの口から出たのは、礼への返答ではなかった。


「私のために——戦ってくれて、ごめんなさい」


 兵士の涙を見て、リーリエの目にも熱いものが込み上げた。この人は教会軍と戦って傷ついた。リーリエを守るために。リーリエを教会に渡さないために。この若い魔族は——リーリエのために血を流した。


 私のために——人が傷ついている。


 それは聖女制度と同じ構図ではないか。


 リーリエが世界の結界を維持するために命を削られるのと、魔族の兵士たちがリーリエを守るために命を懸けるのと——何が違う。形は違う。自発的に戦う兵士と、強制的に燃料にされる聖女では、根本が違う。それはわかっている。けれど——誰かの犠牲の上に、自分が立っている。その構図が変わっていない。


 リーリエは次の負傷者のもとへ移った。そしてまた次の。次の。聖女の微かな癒しの力で、一人また一人の傷を少しだけ癒していく。完治させる力はない。けれど——痛みを和らげることくらいはできた。出血を遅らせることくらいは。


 兵士たちはリーリエの手に触れられるたびに、驚いた顔をした。聖女の力を知っている者は少ない。ましてや聖女に直接治療されるなど——想像もしなかっただろう。「聖女様」「ありがとうございます」「申し訳ありません」。感謝と恐縮が入り混じった声が、リーリエの耳に積み重なっていった。


 どれほどの時間が経っただろう。


 リーリエの額に汗が滲んでいた。聖女の力を使うたびに、自分の命も僅かに削られる。それを知っていても——止められなかった。目の前に傷ついた人がいるのに、手を引くことが——できなかった。


 医務室を出ると、廊下はしんと静まっていた。


 リーリエは壁に背を預け、そのまま座り込んだ。足に力が入らない。聖女の力を使いすぎた。身体が重い。目の前が少し暗い。指先が冷えている。


 足音が聞こえた。重い足音。聞き慣れた足音。


「何をやっている」


 カインだった。前線から戻ったばかりなのだろう、鎧の上に土埃がついている。黒い鎧の左肩に新しい傷がある。リーリエが廊下に座り込んでいるのを見て、眉を寄せた。


「治療を——手伝っていました」


「力を使ったのか」


「少しだけ」


「少しじゃないだろう。顔が白い」


 カインがリーリエの前にしゃがんだ。額に手を当てる。微熱がある。


「無理をするな」


「無理じゃありません」


 リーリエは顔を上げた。


「これくらい、させてください。私のために戦ってくれている人たちがいるのに、私だけ何もしないなんて——耐えられません」


「お前が倒れたら本末転倒だ」


「でも——私のために人が傷つくなら、せめて私の手で治したい」


 カインの言葉が止まった。


 リーリエの目を見ていた。薄い青紫の瞳に、疲労と——それ以上の決意が宿っている。あの日、崖の上で「もういいですよね」と呟いた少女の目とは、別の目だった。あのとき見えたのは虚ろだった。今見えるのは——光だ。


 カインは黙って立ち上がった。


 そしてリーリエの前で、背を向けてしゃがんだ。


「……何ですか」


「乗れ」


「え」


「歩けないだろう。部屋まで運ぶ」


「歩けます」


「嘘をつくな。さっきから足が震えている」


 リーリエは——反論できなかった。確かに足は震えていた。立ち上がることすら怪しい。


 おずおずとカインの背中に身を預けた。カインが立ち上がると、視界が高くなった。カインの背中は広くて温かかった。黒い外套の下にある筋肉の硬さと、その奥に伝わる体温。戦場の土と鉄の匂いが混じる中に——微かに、カインの体温の温もりがあった。


「……すみません」


「黙っていろ」


 カインが歩き出す。リーリエを背負ったまま、城の廊下を進む。すれ違った従者が目を丸くしたが、カインの「何だ」という一睨みで視線を逸らした。リュカだけが遠くからニヤリと笑ったが、カインの二度目の睨みで姿を消した。


 リーリエの耳元で、カインの声が聞こえた。低い声。背中に乗った人間にだけ届く、小さな声。


「お前は——変わったな」


 独り言のような。けれどリーリエに聞かせるための声。


「……変わりましたか」


「ああ。前は——何もかもどうでもよさそうだった。今は、違う」


 リーリエはカインの背中に顔を埋めた。目が熱い。涙が滲みそうになる。


 癒すだけでは足りない。傷を治しても、戦争が続けば傷は増える。この戦いを——止めなければ。


 カインの背中の温もりを感じながら、リーリエの中で何かが固まりつつあった。


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