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魔王は死にたがりの聖女を拾い、今日も溺愛で生かしにかかる  作者: 蒼月よる


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揺らぐ紋章

 それは——一瞬のことだった。


 戦闘が始まって三日目の朝。リーリエは魔王城の展望台に立ち、遠くの前線を見守っていた。昨日カインが防衛線を城壁まで後退させたことで、戦場は城の周囲に移っていた。城壁の上から魔族の兵士たちが迎撃し、カインが城門の前に立って突破を許さない。


 冬の朝の空気が冷たい。吐く息が白く曇る。リーリエは外套の襟を立て、手すりに手を置いた。指先が冷えている。けれど展望台を離れる気にはなれなかった。ここにいれば——カインの戦う気配を、聖女の力で感じ取れる。


 そのとき。


 左胸に——脈動が走った。


 聖女の紋章。白銀の紋様が、肌の下で不規則に明滅した。ずっと安定して光り続けていたそれが、ちかちかと、壊れた灯火のように揺らいだ。二年間、一度として乱れたことのない紋章のリズムが——崩れた。


「——っ」


 リーリエは胸を押さえた。


 痛みではなかった。痛みなら慣れている。二年間、命を燃料にされ続ける鈍痛とともに生きてきた。身体を内側から灼く鈍い痛みは、もはや日常の一部だ。これは——違う。紋章そのものが不安定になっているような、足元の地面が一瞬だけ消えたような、浮遊感に似た奇妙な感覚。


 紋章の光が消えかけた。


 一瞬だけ——完全に消えた。白銀の輝きが肌の下から消失し、リーリエの左胸がただの肌に戻った。


 世界が——一瞬だけ、揺れた気がした。結界を感じ取る聖女の感覚が、ほんの刹那、途切れた。世界を覆う結界の存在が感じられなくなり、代わりに——巨大な虚無が顔を覗かせた。


 そしてまた灯った。何事もなかったかのように、白銀の光が安定して戻った。結界の気配も元に戻った。


 リーリエの手は胸元に押し当てられたまま、震えていた。


「何……今の」


 独り言が唇から漏れた。紋章が揺らいだ。消えかけた。それは——結界との繋がりが、一瞬だけ途切れたということなのか。


 リーリエは聖女として覚醒してから二年間、紋章が不安定になったことは一度もなかった。常に一定のリズムで光り、一定の速度で命を削り、一定の強度で結界に力を送り続けていた。その安定が——崩れた。


 だとしたら——何が起きている。


 夕刻、前線から戻ったカインに、リーリエはすぐにそのことを伝えた。


 カインの部屋。古い文献が積まれた机。壁には地図と、解読途中の古代文字の写しが貼られている。カインは鎧を外したばかりで、黒い上衣の上から包帯が見えている。昨日の傷はまだ完全には塞がっていない。けれどリーリエの言葉を聞いた途端、カインの目が鋭くなった。疲労の色が一瞬で消え、分析者の顔になる。


「紋章が揺らいだ?」


「はい。一瞬だけ——光が消えて、すぐに戻りました」


「一瞬、完全に消えたのか」


「はい。ほんの——まばたきよりも短い時間でしたけど」


 カインが立ち上がり、リーリエの前に来た。


「見せろ」


 リーリエが頷く。聖衣の襟元を少し広げると、左胸の鎖骨の下に白銀の紋章が浮かんでいた。今は安定して光っている。異常は見えない。規則的な脈動。静かな白銀の輝き。


 カインの手がリーリエの胸元に近づいた。紋章に触れないよう、数指ほどの距離を保って手のひらをかざす。魔力を使って紋章の状態を探っているのだ。カインの手から微かな赤い光が漏れ、白銀の紋章と相互作用するように揺れた。


 リーリエの頬が——微かに熱くなった。


 カインの手は大きくて温かい。戦場で剣を振るう手が、今はリーリエの胸元のすぐ近くにある。その手の甲に、古い紋章の痕跡が見える。手袋を外しているから——普段は隠しているそれが、微かに光っていた。初代聖女との契約の痕跡。


 その手が胸元のすぐ近くにあるという事実が、紋章の異変とは別の意味で心臓を速くさせた。どくり、と鼓動が強くなる。紋章を介して炉に伝わっていないことを祈った。


「動くな」


 カインが真面目な顔で言った。意識は完全に紋章の解析に向いている。リーリエの鼓動が速くなっていることには——気づいていない。あるいは、紋章の揺らぎの影響だと解釈しているのかもしれない。


「……揺らいでいる?」


 カインが目を細めた。


「今は安定していますが」


「いや。表面は安定して見えるが——深層部が微かに震えている。波打っている、というべきか。炉との繋がりが変化している……?」


 カインが手を引いた。リーリエが襟元を直す。頬の熱はまだ引いていなかったが、カインの険しい表情を見て、それどころではないと思い直した。


「原因はわかりますか」


「わからない」


 カインの声は率直だった。飾らない。知らないことは知らないと言う。五百年の知識を持ってしても、見たことのない現象に対しては正直に認める。その誠実さが——リーリエには信頼に値するものだった。


「紋章は聖なる炉と繋がっている。炉が聖女の命を吸い上げ、結界を維持する——その構造は変わっていない。だが紋章が揺らぐということは、炉との接続そのものに何かが起きている」


「何か」


「わからない。だが——覚えておく」


 カインがリーリエを見た。深紅の瞳に、分析者の冷静さと保護者の心配が同居していた。


「何か変化があったらすぐに言え。些細なことでもだ」


「わかりました」


「些細なこと《《でも》》だ。いいな」


「……はい」


 リーリエは小さく頷いた。カインの「些細なことでも」に込められた過剰な心配を——少しだけ、温かく感じた。この人はいつもこうだ。言葉は素っ気ないのに、その裏にある感情は——過剰なほどに深い。


 夜。


 戦闘が一時的に小康状態になった深夜。魔王城は束の間の静寂に包まれていた。城の廊下にはマリカが灯した温かい灯りが揺れ、遠くから従者たちの低い話し声が聞こえる。


 カインは自室の机に向かっていた。古い文献が積まれている。五百年の間に集めた、聖なる炉に関する記録。初代聖女の研究の断片。結界の構造に関する考察。黄ばんだ羊皮紙と、かすれた墨の文字。


 そのどこにも——「紋章が揺らぐ」という記録はなかった。


「紋章が揺らぐということは……」


 カインは独り言を呟いた。


 炉との繋がりが変質している。安定して維持されていた接続に、何らかの変化が起きている。それは——結界が弱まっている兆候なのか。リーリエの命の消耗が加速しているのか。


 あるいは。


 別の何かが——起きようとしているのか。


 カインの脳裏に、初代聖女の顔が浮かんだ。五百年前、初代聖女が炉に向かう直前にも——紋章が揺らいだのだろうか。あのとき、カインはそれに気づけなかった。気づいていれば——何か変わっていたのだろうか。


 答えは見つからなかった。古い文献は沈黙を守り、初代聖女の研究ノートにも類似の記録はない。


 カインは文献を閉じ、窓の外を見た。


 夜空に嵐雲が流れている。星は見えない。


 紋章が揺らいだ。それは結界の弱体化か、それとも——何か別の変化の兆しか。


 答えはまだ遠い。


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