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魔王は死にたがりの聖女を拾い、今日も溺愛で生かしにかかる  作者: 蒼月よる


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数の暴力

 数というのは、暴力だった。一つ一つは弱くても、束になれば何でも押し潰す。水が岩を削るように。時間が記憶を磨り減らすように。


 カインが先鋒を退けてから半日。教会軍は第二波、第三波と間断なく攻勢をかけてきた。個々の力ではカインに遠く及ばない。しかし彼らは倒れた者の代わりが無尽蔵に補充された。一人が倒れれば二人が前に出る。二人を退ければ四人が押し寄せる。聖騎士団の精鋭は後方に下がり、代わりに各国から徴集された兵士たちが消耗戦を仕掛けてきた。


 命の安い使い方だった。大司教の指示なのだろう。聖騎士団という精鋭を温存し、徴集兵を波状攻撃に投入する。徴集兵にとっては死地だが、大司教の計算では「消耗可能な資源」にすぎない。聖女を「燃料」と呼ぶ男だ。兵士もまた、数字でしかない。


「東の防壁が破られた! 第三隊、応援を——」

「南の森から迂回部隊が! 数は五十!」

「西の門に聖術の砲撃が集中しています!」


 各所から報告が殺到する。魔族の将たちがそれぞれの持ち場で奮戦していた。ヴェルナーが東の防壁で剣を振るい、正確な剣技で聖騎士の攻撃を受け流している。リュカが南の森で遊撃戦を仕掛け、木々の間を影のように駆け抜けながら敵の伝令兵を次々と仕留めていた。個々の戦闘力では魔族が上だ。しかし一つの穴を塞ぐと別の場所が破られる。水を掬うように、次から次へと隙間が生まれる。


 カインは前線の中央で剣を振るいながら、全体の戦況を把握していた。


 五百年の戦闘経験は、個人の戦闘力だけでなく戦場全体を俯瞰する眼も養っていた。敵の配置、動きの癖、指揮系統の位置。攻撃の間隔から敵の疲労度を読み、後方の補給線の動きから次の攻勢のタイミングを予測する。すべてが頭の中で地図のように展開されている。


 そして——その地図が示す結論は、明白だった。


「……数だけは向こうが上か」


 剣を振るう手を止めず、カインは低く呟いた。


 教会軍の物量は圧倒的だった。聖騎士団だけではない。教会が各国に「魔王討伐」の大義名分で援軍を要請し、集まった兵力は総勢千を超える。各国の王侯貴族にとって、教会の要請は拒否しづらい。信仰の力は政治の力でもある。対する魔族軍は百に満たない。一人あたりの戦闘力で補えるのは三倍が限界だ。十倍の数には——勝てない。


 感情ではなく、合理的な判断だった。


「退け」


 カインの声が前線に響いた。


「城まで下がる。防衛線を城壁に切り替える」


 魔族の将たちが命令を受け、秩序ある後退を開始した。カインが最後尾に立ち、追撃してくる敵兵を一人残らず退けながら、味方の撤退を守る。殿軍。最も危険な役割を、カインは自ら担った。


 後退は敗北ではない。しかし——苦い。領地を一歩ずつ明け渡す感覚。五百年守ってきた城の周辺が、教会の旗で埋まっていく。


 夕刻。


 前線から城に戻ったカインの黒い鎧には、いくつもの傷がついていた。刃が通った痕、聖術の焦げ跡。鎧の肩当ての一つが半ば砕けている。致命傷はない。しかし無傷でもなかった。五百年分の生命力と魔力があっても、千を超える兵を一人で相手にすれば——傷は積もる。


 城門をくぐったカインの姿を見て、リーリエが駆け寄ってきた。


 小走りで城門を出てくるリーリエの目に、安堵と心配が同居していた。その足が——カインの右腕を見て止まった。


 袖の下から、血が滲んでいた。黒い布地に濃い染みが広がり、手袋の指先にまで血が伝っている。


「大したことはない」


 カインが無表情に言った。五百年の間に何千回も言ったであろう言葉を、何の感慨もなく。


「嘘」


 リーリエの声は静かだったが、有無を言わせない響きがあった。カインの右腕の袖を捲ると、肘の下に長い切り傷が走っていた。聖騎士の剣が掠めた痕だろう。深くはないが、血が止まっていない。


「……浅い傷だ」


「血が出ています。浅い傷は嘘です」


 リーリエの声に、僅かな怒りが混じっていた。怒り——それは感情が生きている証拠だった。かつてのリーリエなら、カインが血を流していても「そうですか」と言ったかもしれない。何もかもがどうでもよかった頃なら。


 今は——怒っている。カインが自分を大切にしないことに。


 リーリエはカインの腕を取り、手当てを始めた。従者が持ってきた布と薬液で傷口を洗い、丁寧に布を巻いていく。リーリエの手は細く、白く、華奢だった。戦場とは無縁の手だ。けれどその手つきは——丁寧で、温かかった。指先が傷口に触れるたびに、カインの身体が微かに強張る。痛みではなく——誰かに触れられることへの不慣れ。五百年、誰の手当ても受けなかった男。


 カインは黙ってリーリエの手当てを受けていた。


 いつもは守る側の男が、今は守られている。その逆転を——カインは居心地悪そうに、しかし振り払えずにいた。振り払うつもりもなかった。


「……もう少し、自分を大切にしてください」


 リーリエが布を巻き終えながら言った。視線を傷口に落としたまま。


「お前に言われたくないな」


「私はもう、崖から飛びませんから」


 その言葉に、カインの手が止まった。


 崖から飛ばない。それは——リーリエが初めて明確に口にした「生きる意志」の片鱗だった。まだ「生きたい」とは言えない。けれど「死のうとはしない」と言えるようになった。


 リーリエが顔を上げた。薄い青紫の瞳が、カインの深紅の瞳を見上げている。涙はない。代わりに——微かな強さがある。


「だから——あなたも、無茶しないでください」


 カインは数秒、リーリエを見つめた。


 それから——視線を逸らした。


「……善処する」


 ぶっきらぼうな答え。けれどリーリエには、それが「わかった」と同義であることが——もうわかっていた。


 城壁の外では、教会軍が陣地を構築し始めていた。篝火の列が地平線に並び、夜の闇の中で不気味に揺れている。包囲は着々と進んでいる。


 魔王城の防壁は持ちこたえている。


 だが——いつまで。


 カインの腕に巻かれた白い布が、リーリエの目に焼きついて消えなかった。白い布地に滲む赤い染み。それは——カインが「不死身ではない」という事実の証明だった。五百年を生き延びた男にも血が通っている。痛みがある。傷つく身体がある。


 リーリエは自室のベッドに入ってからも、その白い布を思い出していた。手当てをしたときの感触。カインの腕は筋肉質で温かかった。傷口に触れるたびに微かに強張る筋肉。痛みではなく——誰かに触れられることへの不慣れ。


 あの人は——五百年間、誰の手当ても受けなかったのだろうか。傷を負っても、一人で。痛くても、一人で。


 胸が痛んだ。同情ではなく——もっと深い、名前のつかない感情だった。


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