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魔王は死にたがりの聖女を拾い、今日も溺愛で生かしにかかる  作者: 蒼月よる


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開戦

 地平線が燃えていた。


 黒煙ではない。朝日でもない。聖騎士団の軍旗が、白銀の布地に金糸の紋章を刺繍されたそれが、数えきれないほど風に翻っている。その白と金が朝の光を受けて、地平を一面の炎のように染めていた。


 カインは防衛線の最前列に立っていた。


 黒い鎧。漆黒の外套。その手に握られた長剣は、鍛冶の技ではなく数百年の歳月が研ぎ上げたものだった。柄に巻かれた革は何度も巻き直された痕があり、刃には幾千の戦場を越えた刃紋が走っている。刃を見れば刀匠は首を傾げるだろう——この剣は打ち直された形跡がない。五百年の使用に耐え得る剣など、人の手で打てるものではない。


 冬の風が外套を叩く。鉄と土と、遠くから流れてくる煙の匂い。空気が乾いていた。戦場の朝の空気だ。


 眼前に広がるのは、教会軍の先鋒部隊。


 二百を優に超える兵が整然と隊列を組み、聖騎士団の精鋭がその先頭に立っている。白銀の甲冑に身を包んだ騎士たちの目には、恐怖ではなく使命感が宿っていた。「聖女救出」という大義を信じて疑わない者たちの目だ。


 ——哀れだな。


 カインは深紅の瞳を細めた。教会に利用されていることも知らずに、正義を信じて死地に赴く若い騎士たち。五百年前にも同じ光景を見た。あのときも聖騎士たちは正義を信じていた。教会が語る「聖なる使命」を疑いもせず、剣を振るい、命を落とした。何も変わっていない。五百年という歳月は、教会にとっては紋章の金箔を塗り直す程度の時間でしかないらしい。


「魔族の諸君」


 カインの声が前線に響いた。低く、しかし隅々まで届く声だった。


「敵の先鋒は聖騎士団だ。数は三百。精鋭だが——俺の前には足りない」


 魔族の兵士たちの間に、微かな安堵が走った。彼らはカインの力を知っている。五百年を生き延びた男の戦闘能力が、常軌を逸していることを。


「前線は俺が受ける。お前たちは左右の側面を固めろ。突破されるな」


 将たちが頷き、配置についた。カインの戦場指揮は無駄がない。五百年の経験は、孤独な戦闘力だけでなく、兵の動かし方にも刻まれていた。


 進軍の角笛が鳴った。


 教会軍が動き始める。先鋒の聖騎士団が剣を抜き、隊列を保ったまま前進する。聖術による身体強化の光が鎧の隙間から漏れ、地を蹴る足音が大地を揺らす。三百の騎士が一つの生き物のように動く様は、その統率力だけを見れば見事と言えた。


 カインが一歩、踏み出した。


 それだけだった。たった一歩。けれど——その一歩で、前線の空気が変わった。重力が歪んだかのように大気が軋み、カインの足元の地面に蜘蛛の巣状のひびが入った。聖なる炉の余波を受けた身体が発する魔力が、不可視の圧となって戦場に広がる。


 剣が閃いた。


 一閃。横薙ぎの一撃が、弧を描いた。見えたのは黒い軌跡だけだった。刃が空気を裂く音すら遅れて届いた。先鋒の第一列——十数名の聖騎士が、一瞬で吹き飛んだ。鎧ごと。盾ごと。聖術の防壁ごと。白銀の甲冑が紙のように弾け、騎士たちは地面を転がった。致命傷ではない。カインは加減していた。殺す必要はなかった。戦意を折ればいい。


 二閃。三閃。


 カインの剣は止まらなかった。踏み込むたびに敵陣に穴が空き、薙ぐたびに隊列が崩れる。黒い外套が翻るたびに白銀の鎧が弾け、深紅の瞳が閃くたびに兵士たちの足が竦む。


 それは戦闘というより——嵐だった。人の形をした嵐。振り下ろされる剣が風を生み、踏み込む足が地を揺らし、発する魔力が空を歪ませる。


「ば、化物——」


 聖騎士の一人が叫んだ。剣を構えたまま、足が動かない。膝が笑っている。聖術で強化された身体が、本能の恐怖に負けている。


 魔王。


 その二文字が意味するものを、教会軍の兵士たちは今、肌で理解していた。これは人間ではない。これは——人の形をした災厄だ。教会が語る「魔王」の伝説は誇張だと思っていた。人間一人がこれほどの力を持つはずがないと。しかし目の前の現実が——伝説を超えていた。


 カインは一人で教会軍の先鋒を止めていた。


 三百の聖騎士が、たった一人の前に進めない。白銀の隊列が、黒い壁に阻まれている。壁ではない。嵐だ。近づく者を薙ぎ倒す、黒い嵐。


 前線から離れた魔王城の展望台。


 リーリエは、その光景を見ていた。


 遠い。距離がありすぎて、個々の動きは見えない。けれど——結界を感じ取る聖女の力が、戦場の気配を伝えていた。膨大な力の奔流。人間のものとは思えない魔力の波動が、戦場から脈打つように押し寄せてくる。その波動の中心にいるのは——カインだ。


「……あの人が、戦っている」


 リーリエは展望台の手すりを握りしめた。指が白くなるほど力を込めた。石の手すりの冷たさが掌に食い込む。風が髪を乱し、視界を遮る。それでも目を逸らせなかった。


 カインの力。あの圧倒的な力は、本当に「魔王」のものなのだろうか。リーリエは以前からその疑問を抱いていた。カインの力は邪悪さとは無縁だった。暴力的ではあっても、その根底にあるのは——守ろうとする意志。破壊のための力ではなく、護衛のための力。


 あの力の本質は何なのだろう。


 そのとき、戦場の中で——カインが一瞬だけ振り返った。展望台の方を。リーリエのいる方を。


 距離がありすぎて、表情は見えない。風が運ぶのは戦場の喧騒だけで、声も届かない。


 けれどリーリエには——わかった。あの深紅の瞳が、こちらを見ていることが。「ここにいる」と。「守っている」と。言葉にならない約束が、距離を越えて届いていた。


 胸の奥で、何かが温かくなった。紋章の白銀の光とは違う、別の温もり。


 前線では、教会軍の先鋒が総崩れになっていた。カインの剣が最後の騎士の盾を砕き、第一波の攻撃が完全に退けられた。魔族の兵士たちから歓声が上がる。「魔王」の名が誇りを込めて叫ばれる。


 しかしカインの表情は険しかった。


 地平線の向こうに——第二波、第三波の軍旗が見える。白と金の旗が、幾重にも重なって地平を埋めている。先鋒は序の口にすぎない。教会が本気で送り込んできた軍勢は、先鋒の数倍に及ぶ。


 魔王の剣が教会軍を退けた。


 展望台でリーリエは手すりを握りしめたまま、戦場から目を離せなかった。カインの魔力の波動が体内の紋章に響いてくる。あの力は——圧倒的だ。けれど圧倒的であればあるほど、その力の源泉が何であるかが気になった。魔王の力ではない。もっと——純粋な何か。


 第二波の軍旗が動き始めた。白と金の旗が、蟻の行列のように地平を這ってくる。


 リーリエは祈るように手すりを握った。祈りの形ではない。ただ——願っていた。カインが無事であることを。あの圧倒的な力が、永遠に尽きないことを。


 しかし現実は——数で押す教会軍の前に、一人の力には限界がある。どれほど強くても。五百年を生き延びた男であっても。


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