表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
魔王は死にたがりの聖女を拾い、今日も溺愛で生かしにかかる  作者: 蒼月よる


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

135/185

嵐の前

 教会軍の本隊が——到着した。


 魔王城の展望台に立つと、南の平原を埋め尽くす光が見えた。篝火。無数の篝火が、冬の闇を橙色に染めている。


 五百。


 いや——もっと多いかもしれない。各国からの援軍が合流したのだ。白銀の甲冑を纏った聖騎士団。槍を持つ歩兵部隊。聖術師の一団。馬上の指揮官たち。整然と配置された天幕群。


 魔王城は——包囲された。


 リーリエは展望台の手すりを握りしめ、その光景を見下ろしていた。


 息を呑んだ。


 これだけの人間が——「自分を取り戻すため」に集まっている。彼らは聖女を救うために来た。聖女を「魔王の束縛」から解放するために。純粋な善意と使命感に突き動かされて。


 その善意の向こうに待っているのが——炉だということを、誰も知らない。


「……すごい数ですね」


 リーリエの声は震えなかった。穏やかだった。けれど——手すりを握る指が、白くなっていた。


「ああ」


 カインが隣に立っていた。腕を組み、教会軍の陣営を見下ろしている。


「本隊だけで五百。援軍を入れれば七百に近いだろう」


「勝てますか」


「負けない」


 断言だった。迷いがなかった。


 リーリエはカインの横顔を見た。篝火の遠い光に照らされた、厳しい横顔。深紅の目が敵陣を見据えている。この人は——五百年間、こうして戦い続けてきたのだ。一人で。


 けれど今は——一人ではない。


    *


 城内は、静かな喧騒に包まれていた。


 従者たちが戦闘準備に走り回っている。武器の最終確認。防壁の補強。食料と水の配置。負傷者のための救護所の設営。


 リーリエは城内の回廊を歩いた。


 すれ違う従者たちが、リーリエに微笑みかけた。不安の中で——笑顔を見せてくれた。


「リーリエ様、大丈夫ですよ」


「カイン様がいらっしゃいますから」


「明日が終わったら——お嬢の焼いたパン、また食べたいっすね」


 リュカの軽口に、リーリエは小さく笑った。


「……今度はもう少し上手に焼きます」


「約束っすよ」


 リュカが笑い、去っていった。その背中は——笑顔とは裏腹に、緊張で強張っていた。


 リーリエは一人、回廊の窓辺に立った。


 考えていた。


 かつての自分なら——何も感じなかっただろう。戦いが始まろうと世界が滅びようと、どうでもよかった。死にたかったのだから。


 少し前の自分なら——怖かっただろう。失うのが怖い。この場所を、この人たちを、カインを。


 今の自分は——。


 何かしたい。


 守られるだけは嫌だ。カインに戦略を聞いたとき、「お前は生きていればいい」と言われた。その言葉に、初めて満足しなかった。初めて——反発した。


 リーリエにできることは少ない。戦闘はできない。魔法もない。身体は弱い。


 けれど——何もないわけではない。


 リーリエは聖女だ。結界を感じることができる。歴代聖女の記憶の断片に触れることができる。教会の知識がある。古代語が読める。


 それが戦場で何の役に立つのかは——わからない。けれど、「役に立てるかもしれない」と思えること自体が——かつてのリーリエにはなかった感覚だ。


    *


 夜が更けた。


 リーリエはカインの部屋を訪ねた。


 扉をノックすると、「開いている」と低い声が返ってきた。


 カインは窓辺に立っていた。教会軍の篝火を見下ろしている。甲冑は外し、黒い衣服だけを纏っていた。髪が肩にかかり、前髪が片目を隠している。


「……来たか」


「はい」


 リーリエは部屋の中に入った。カインの背中に向かって——言った。


「私も、何かしたいです」


 カインの肩が——微かに動いた。


「守られるだけは、もう嫌です。私は——カインさんや皆のために、何かしたい」


 カインは振り返らなかった。窓の外を見つめたまま。


「お前にできることは——」


「わかっています。戦えません。剣も振れないし、魔法も使えない。けれど——何もないわけじゃないと思うんです」


 リーリエの声は穏やかだったが——確かだった。


「教会の知識があります。古代語が読めます。結界を感じることができます。それが今すぐ何かの役に立つかはわかりません。でも——私は、ただここで待っているだけの人間では、いたくないんです」


 長い沈黙が落ちた。


 教会軍の篝火の光が、窓から部屋の中に差し込んでいる。橙色の光がカインの横顔を照らしていた。


 カインが——ゆっくりと振り返った。


 深紅の目が、リーリエを見た。


 そこには——複雑な感情があった。心配。戸惑い。不安。けれどその奥に——微かな光。リーリエの変化を認める光。


 カインが一歩、歩み寄った。


 大きな手が——リーリエの頭に置かれた。


 温かかった。


「……わかった」


 低い声。


「お前のやりたいことを——聞かせろ」


 リーリエの目が——少しだけ、大きくなった。


 受け入れてくれた。


 「生きていればいい」ではなく。「散歩でもしてこい」でもなく。「お前のやりたいことを聞かせろ」。


 カインの手がリーリエの頭の上にある。重くて、温かくて、大きな手。五百年の孤独を生き延びた手が——今、リーリエの頭に優しく乗っている。


 リーリエは目を閉じた。


 その温もりを——全身で受け止めた。


「ありがとうございます」


 小さな声。けれど——芯のある声。


 嵐が来る。教会軍が城を包囲している。明日から——本格的な戦いが始まる。


 しかしリーリエはもう、嵐の中で待つだけの存在ではない。


 まだ何ができるかはわからない。けれど——「何かしたい」と思える自分がいる。「守られるだけは嫌だ」と言える自分がいる。


 崖から身を投げたあの少女は——もういない。


 ここにいるのは、嵐の前に立ち、自分の意志で何かを選ぼうとしている——リーリエだ。


 カインの手が頭から離れた。


 二人は窓辺に立ち、教会軍の篝火を見下ろした。


 無数の灯りが地平線に連なっている。一つ一つが兵士の命だ。あの灯りの向こうに、家族がいる。帰りを待つ人がいる。教会の大義を信じて戦場に来た人間たちの灯り。


 リーリエの左胸で、紋章が微かに脈打った。結界の揺らぎを感じ取っている。世界が——緊張している。戦が近い。


 カインが窓枠に手を置いた。大きな手。傷だらけの手。この手が明日、また剣を握る。


「カインさん」


「何だ」


「……明日も、生きてください」


 カインが一瞬、目を見開いた。そして——口元が緩んだ。


「お前にだけは言われたくないな」


 嵐が来る。


 けれど今は——二人で同じ景色を見ている。カインの手がリーリエの頭の上にある温もりと、窓の向こうに揺れる篝火の冷たさ。その対比の中に——リーリエは確かな現在を感じていた。


 それだけで、十分だった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ