嵐の前
教会軍の本隊が——到着した。
魔王城の展望台に立つと、南の平原を埋め尽くす光が見えた。篝火。無数の篝火が、冬の闇を橙色に染めている。
五百。
いや——もっと多いかもしれない。各国からの援軍が合流したのだ。白銀の甲冑を纏った聖騎士団。槍を持つ歩兵部隊。聖術師の一団。馬上の指揮官たち。整然と配置された天幕群。
魔王城は——包囲された。
リーリエは展望台の手すりを握りしめ、その光景を見下ろしていた。
息を呑んだ。
これだけの人間が——「自分を取り戻すため」に集まっている。彼らは聖女を救うために来た。聖女を「魔王の束縛」から解放するために。純粋な善意と使命感に突き動かされて。
その善意の向こうに待っているのが——炉だということを、誰も知らない。
「……すごい数ですね」
リーリエの声は震えなかった。穏やかだった。けれど——手すりを握る指が、白くなっていた。
「ああ」
カインが隣に立っていた。腕を組み、教会軍の陣営を見下ろしている。
「本隊だけで五百。援軍を入れれば七百に近いだろう」
「勝てますか」
「負けない」
断言だった。迷いがなかった。
リーリエはカインの横顔を見た。篝火の遠い光に照らされた、厳しい横顔。深紅の目が敵陣を見据えている。この人は——五百年間、こうして戦い続けてきたのだ。一人で。
けれど今は——一人ではない。
*
城内は、静かな喧騒に包まれていた。
従者たちが戦闘準備に走り回っている。武器の最終確認。防壁の補強。食料と水の配置。負傷者のための救護所の設営。
リーリエは城内の回廊を歩いた。
すれ違う従者たちが、リーリエに微笑みかけた。不安の中で——笑顔を見せてくれた。
「リーリエ様、大丈夫ですよ」
「カイン様がいらっしゃいますから」
「明日が終わったら——お嬢の焼いたパン、また食べたいっすね」
リュカの軽口に、リーリエは小さく笑った。
「……今度はもう少し上手に焼きます」
「約束っすよ」
リュカが笑い、去っていった。その背中は——笑顔とは裏腹に、緊張で強張っていた。
リーリエは一人、回廊の窓辺に立った。
考えていた。
かつての自分なら——何も感じなかっただろう。戦いが始まろうと世界が滅びようと、どうでもよかった。死にたかったのだから。
少し前の自分なら——怖かっただろう。失うのが怖い。この場所を、この人たちを、カインを。
今の自分は——。
何かしたい。
守られるだけは嫌だ。カインに戦略を聞いたとき、「お前は生きていればいい」と言われた。その言葉に、初めて満足しなかった。初めて——反発した。
リーリエにできることは少ない。戦闘はできない。魔法もない。身体は弱い。
けれど——何もないわけではない。
リーリエは聖女だ。結界を感じることができる。歴代聖女の記憶の断片に触れることができる。教会の知識がある。古代語が読める。
それが戦場で何の役に立つのかは——わからない。けれど、「役に立てるかもしれない」と思えること自体が——かつてのリーリエにはなかった感覚だ。
*
夜が更けた。
リーリエはカインの部屋を訪ねた。
扉をノックすると、「開いている」と低い声が返ってきた。
カインは窓辺に立っていた。教会軍の篝火を見下ろしている。甲冑は外し、黒い衣服だけを纏っていた。髪が肩にかかり、前髪が片目を隠している。
「……来たか」
「はい」
リーリエは部屋の中に入った。カインの背中に向かって——言った。
「私も、何かしたいです」
カインの肩が——微かに動いた。
「守られるだけは、もう嫌です。私は——カインさんや皆のために、何かしたい」
カインは振り返らなかった。窓の外を見つめたまま。
「お前にできることは——」
「わかっています。戦えません。剣も振れないし、魔法も使えない。けれど——何もないわけじゃないと思うんです」
リーリエの声は穏やかだったが——確かだった。
「教会の知識があります。古代語が読めます。結界を感じることができます。それが今すぐ何かの役に立つかはわかりません。でも——私は、ただここで待っているだけの人間では、いたくないんです」
長い沈黙が落ちた。
教会軍の篝火の光が、窓から部屋の中に差し込んでいる。橙色の光がカインの横顔を照らしていた。
カインが——ゆっくりと振り返った。
深紅の目が、リーリエを見た。
そこには——複雑な感情があった。心配。戸惑い。不安。けれどその奥に——微かな光。リーリエの変化を認める光。
カインが一歩、歩み寄った。
大きな手が——リーリエの頭に置かれた。
温かかった。
「……わかった」
低い声。
「お前のやりたいことを——聞かせろ」
リーリエの目が——少しだけ、大きくなった。
受け入れてくれた。
「生きていればいい」ではなく。「散歩でもしてこい」でもなく。「お前のやりたいことを聞かせろ」。
カインの手がリーリエの頭の上にある。重くて、温かくて、大きな手。五百年の孤独を生き延びた手が——今、リーリエの頭に優しく乗っている。
リーリエは目を閉じた。
その温もりを——全身で受け止めた。
「ありがとうございます」
小さな声。けれど——芯のある声。
嵐が来る。教会軍が城を包囲している。明日から——本格的な戦いが始まる。
しかしリーリエはもう、嵐の中で待つだけの存在ではない。
まだ何ができるかはわからない。けれど——「何かしたい」と思える自分がいる。「守られるだけは嫌だ」と言える自分がいる。
崖から身を投げたあの少女は——もういない。
ここにいるのは、嵐の前に立ち、自分の意志で何かを選ぼうとしている——リーリエだ。
カインの手が頭から離れた。
二人は窓辺に立ち、教会軍の篝火を見下ろした。
無数の灯りが地平線に連なっている。一つ一つが兵士の命だ。あの灯りの向こうに、家族がいる。帰りを待つ人がいる。教会の大義を信じて戦場に来た人間たちの灯り。
リーリエの左胸で、紋章が微かに脈打った。結界の揺らぎを感じ取っている。世界が——緊張している。戦が近い。
カインが窓枠に手を置いた。大きな手。傷だらけの手。この手が明日、また剣を握る。
「カインさん」
「何だ」
「……明日も、生きてください」
カインが一瞬、目を見開いた。そして——口元が緩んだ。
「お前にだけは言われたくないな」
嵐が来る。
けれど今は——二人で同じ景色を見ている。カインの手がリーリエの頭の上にある温もりと、窓の向こうに揺れる篝火の冷たさ。その対比の中に——リーリエは確かな現在を感じていた。
それだけで、十分だった。




