炉という言葉
カインは夕方に戻った。
先遣部隊は散った。カインが単身で前線に出て、教会軍の指揮官を打ち倒した。先遣部隊は指揮官を失い、撤退した。カイン側の負傷者は——ゼロ。
「旦那様、相変わらずっすね」
リュカがやれやれとばかりに首を振ったが、安堵の色が隠せていなかった。
リーリエもまた——カインの無事な姿を見て、胸の中の緊張がほどけるのを感じた。城門で待ち続けた数時間。何度も展望台に登り、南の方角を見つめた。煙は見えず、剣戟の音も聞こえず——ただ待つことしかできなかった。その「何もできない」時間の長さが、リーリエの胸に鈍い痛みを残していた。
カインの黒い甲冑に傷はなかった。汗の匂いと、冬の風の匂い。それだけだった。けれどリーリエは気づいていた。カインの深紅の目が——戦場から戻った直後にだけ見せる、研ぎ澄まされた光を帯びていることに。その光が普段の色に戻るまで、いつも少し時間がかかる。
けれど戦いは終わっていなかった。先遣部隊は前哨戦に過ぎない。本隊が来る。
その夜——前線からの続報が届いた。
通信用の術式で送られてきた情報。青白い文字が宙に浮かび、一行ずつ消えていく。教会軍の動きを監視する偵察班からの暗号通信だった。リュカがそれを解読し、読み上げた。
「教会軍の司令官が、全軍に対して檄を飛ばしたそうです。内容は——」
リュカの声が、一瞬止まった。琥珀色の目が書面を見つめ、眉を顰めた。
「『聖女が聖なる炉に戻らねば、世界は滅ぶ。聖女の救出は人類の存亡をかけた聖戦である。魔王を打倒し、聖女を炉にお戻しせよ』——以上っす」
広間の空気が変わった。暖炉の薪が爆ぜる音が妙に大きく聞こえた。誰もが動きを止めている。
「聖なる炉」。
その言葉が、空気を凍らせた。
リーリエは知っていた。聖女の命が燃料として燃やされる場所——聖なる炉。教会が五百年にわたって隠蔽してきた、聖女制度の核心。教会軍の司令官がそれを公に口にしたということは——少なくとも軍の指揮層には、聖女制度の実態が伝えられているのだ。
けれどリーリエが凍りついた理由は——そこではなかった。
カインだった。
「炉」という言葉が読み上げられた瞬間——カインの全身が強張った。
見えた。はっきりと見えた。
カインの深紅の目が虚ろになった。焦点が消えた。広間を見ていない。ここにいない。五百年前のどこかを——見ていた。
呼吸が止まっていた。胸が上下していない。まるで——石になったように。
時間にして——三秒ほど。
けれどリーリエにとって、その三秒は永遠のように長かった。
「カインさん?」
リーリエが呼びかけた。
カインが——我に返った。
深紅の目に焦点が戻る。一度、二度、瞬きをして——広間の光景を確認するように周囲を見回した。
「……何でもない」
低い声。硬い声。
リュカが心配そうにカインを見たが、カインは視線で制した。「何でもない」と。
リーリエは黙っていた。何でもなくないことは——明らかだった。カインの指先が微かに震えていた。それを隠すように、腕を組み直す仕草がぎこちなかった。
*
広間が解散した後、リーリエはカインの後を追わなかった。
代わりに——自分の部屋に戻り、ベッドの端に座って考えた。
「聖なる炉」。
カインはこの言葉に反応した。それも——トラウマと呼ぶべき激しさで。
教会に詳しい。聖騎士の剣技を使う。数百年を生きている。封じられた部屋を守っている。夢の中の女性の声に動揺した。
そして今——「炉」という言葉で凍りついた。
すべてが——一つの答えを指している。
リーリエの中で、パズルのピースが並んでいた。まだ最後の一片がはまっていないが——絵の輪郭は見え始めていた。
カインは——聖なる炉を知っている。
教会の秘中の秘である聖なる炉を。聖女の命が燃やされる場所を。五百年前から存在するその場所を。
そしてその場所に——カインの痛みがある。
リーリエは以前知った。聖女制度は五百年前に始まった。初代聖女が自ら炉に命を捧げ、結界を起動した。そして——初代聖女を守ろうとした聖騎士が、教会に追放された。
魔王と呼ばれるようになった——元聖騎士。
リーリエの心臓が速く打った。
まだ——確信はない。確信には至れない。あまりにも——大きな答えだから。
「もし——」
リーリエは呟いた。
「もしカインさんが——」
言葉が途切れた。口にするのが怖かった。もし自分の推測が正しければ——カインの五百年のすべてが、一つの物語として繋がる。
教会を知り尽くしている理由。聖騎士の剣を使える理由。聖なる炉に対するトラウマ。封じられた部屋。夢の中の女性の声。
すべてが。
ノックの音がした。
カインだった。
扉の前に立っていた。いつもの無表情に戻っていた。けれど——目の下の影が、わずかに深くなっていた。廊下の冷えた空気がカインの外套から流れ込んでくる。鉄と夜風の匂いが混じっていた。
「お前は大丈夫か」
カインの第一声が——それだった。
自分が動揺したのに。「炉」という言葉で凍りついたのに。それなのに——リーリエを心配しに来ている。
「……私は大丈夫です。カインさんこそ——」
「俺は問題ない」
嘘だった。明らかな嘘だった。けれどリーリエは——追及しなかった。
「……そうですか」
「ああ。——明日は早い。寝ておけ」
カインが踵を返そうとした。
「カインさん」
リーリエが呼び止めた。
カインが止まった。振り返らない。
「いつか——教えてくれますか。カインさんの、五百年のこと」
長い沈黙が落ちた。
カインの背中が——わずかに震えた。
「……ああ。いつか」
そう言って——去っていった。
リーリエはベッドに倒れ込んだ。天井を見つめた。毛布の柔らかさが背中を包む。窓の外から冬の風が鳴り、壁の灯りが微かに揺れていた。
教会の言う「聖なる炉」——そこにカインの過去のすべてが眠っていることを、リーリエはまだ知らない。
まだ知らない——けれど、知りたい。
カインの五百年を。あの遠い痛みを。あの凍りついた三秒の意味を。
左胸の紋章が、微かに疼いた。夢の中の声が耳の奥で残響している。「方法がある」と言った声。「聞いて」と言った声。あの声と、カインの痛みと、聖なる炉——全てが繋がっている。リーリエにはもう、そう確信できるだけの断片が集まっていた。
あとは——カインが、自分の口で語る日を待つだけだ。
「いつか」。カインはそう言った。その「いつか」が——近づいている気がした。




