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魔王は死にたがりの聖女を拾い、今日も溺愛で生かしにかかる  作者: 蒼月よる


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軍靴の音

 軍靴の音が——聞こえた。


 それは比喩ではなかった。魔王城の展望台から南を見ると——森の向こうに、土埃が上がっていた。何百もの足が地面を踏む振動。鎧がぶつかる金属音。馬の嘶き。


 教会軍の先遣部隊が、魔王領の中枢に迫っていた。


 空気が変わっていた。城の石壁を通してすら、その緊張が伝わってくる。石畳を踏む足の裏から、大地の微かな振動が伝わってきた。朝から従者たちの足音が忙しく廊下を行き交い、鎧を調整する金属音が城内に響いている。油と鉄の匂いが廊下に漂い、暖炉の煙が普段よりも濃く空気に混じっていた。マリカが厨房で保存食を棚に詰め、フィルが水汲みを手伝っている。日常の音が——戦の準備に変わっていた。


 報告はリュカからだった。


「南西の防衛線に接触。教会軍の先遣部隊、推定百五十名。聖騎士団の精鋭を含む。——うちの偵察隊と、小規模な衝突が起きました」


 リュカの声から軽さが消えていた。琥珀色の目が厳しい光を帯びている。


「被害は?」


「うちが三名負傷。相手は五名を押し戻した。撤退させましたが——本格的にやり合ったわけじゃないっす。お互い、様子見」


 カインは広間の中央に立ち、腕を組んでいた。松明の灯りが深紅の瞳に映り込み、その目だけが異様な光を帯びている。将たちが集まり、緊張が空気を満たしている。誰もが背筋を伸ばし、息を詰めている。


「先遣部隊は斥候だ。本隊の進軍路を確保するために送られてきた。本隊は——」


「二日後に到着すると、偵察班が報告しています」


 ヴェルナーが眼鏡の位置を直しながら補足した。


「本隊の規模は推定五百。聖騎士団の主力を含む、教会の精鋭軍です」


 五百。


 魔王城の戦力は——カインを含めて百名に満たない。数の上では圧倒的に不利だ。


 カインの深紅の目が、将たちを見回した。


「防衛配置を出す。南西の峠に第一防衛線。東の川沿いに第二防衛線。城壁が第三防衛線。——三段構えで迎え撃つ」


 将たちが頷いた。


「第一防衛線はリュカが指揮。機動力を活かして遅滞戦闘。敵を引きつけて消耗させろ」


「了解っす」


「第二防衛線はヴェルナーの結界術。川を利用した防壁を構築しろ」


「承知しました」


「第三防衛線——城壁。ここは俺が守る」


 カインの声は静かだった。けれどその静けさの中に——揺るぎない決意があった。


「俺が前線に出る」


 広間が——凍りついた。


「カイン様自らが?」


「先遣部隊は俺が潰す。本隊が来る前に、先手を打つ」


 リュカが眉を上げた。


「旦那様——先遣部隊ごときに旦那様が出る必要は」


「先遣部隊を叩けば、本隊の到着が遅れる。指揮官を潰せば、作戦が狂う。——俺が行くのが最も効率的だ」


 反論はなかった。広間の空気が張り詰めている。将たちの目にあるのは恐怖ではなく——信頼だった。カインの判断は正しい。いつも正しい。五百年の経験に裏打ちされた、最適解。この男について行けば、死ぬことはない。そう信じられるだけの実績が、五百年の中にある。


 けれどリーリエは——広間の隅で、唇を噛んでいた。胸の奥に氷の塊を飲み込んだような重さがある。手が冷たい。指先を握っても、温もりが戻らなかった。


    *


 城門前。


 カインが出撃の準備を整えていた。黒い甲冑を身につけ、腰に剣を帯びる。黒い外套が冬の風に翻った。


 従者たちが最後の確認をしている。リュカが偵察情報を伝え、ヴェルナーが結界石を渡した。


 リーリエは——城門まで走ってきた。


 息を切らしていた。走り慣れていない身体が悲鳴を上げている。けれど——間に合った。


 カインが振り返った。


 リーリエが——立っていた。銀灰色の髪が風に乱れ、薄い青紫の瞳がまっすぐにカインを見ていた。


「見送りに来たのか」


 カインの声は穏やかだった。黒い甲冑に朝の光が反射し、冷たく光っている。冬の風が二人の間を通り抜け、リーリエの銀灰色の髪を揺らした。


「はい」


「……別に、大したことじゃない。先遣部隊を蹴散らすだけだ」


「知っています。カインさんは強いですから」


 リーリエの声は穏やかだった。けれど——手が震えていた。膝の横で、指先が微かに震えている。


 カインはそれに気づいた。気づかないわけがなかった。この人は——リーリエの小さな変化を、いつも見逃さない。


「心配するな。必ず戻る」


「……待っています」


 その言葉が——カインの足を止めた。


「待っています」。


 あの頃のリーリエなら——「どうぞご勝手に」と言っていただろう。カインが戦いに出ようが帰ってこなかろうが、どちらでもよかった。


 少し前のリーリエなら——「気をつけて」と言っただろう。心配はするけれど、それ以上は言えなかった。


 今のリーリエは——「待っています」と言った。


 待つ。帰りを。この場所で。


 それは——「あなたに帰ってきてほしい」という意味だ。「あなたがいない間、ここであなたを想っている」という意味だ。


 カインの深紅の目が——一瞬だけ、揺れた。


「……ああ」


 低い声。ぶっきらぼうな返事。けれどその声は——温かかった。


 カインの大きな手が——一瞬だけ、リーリエの頭に触れた。触れたのか、風だったのか。指先がかすめただけの、幻のような感触。リーリエが顔を上げたとき、カインはもう背を向けていた。


 カインが城門を出ていった。黒い背中が冬の風景に溶けていく。


 リーリエは城門に立ったまま、その背中を見送った。


 冬の風が外套を翻す。黒い布地が翼のように広がり——また閉じる。カインの歩みは速い。迷いがない。戦場に向かう者の足取り。五百年間、幾千の戦場を越えてきた者の足取り。


 カインの背中が小さくなり——やがて、森の中に消えた。木々の間に、黒い影が溶けて見えなくなる。


 リーリエは胸の前で手を組んだ。祈りの形ではなかった。ただ——手を握りしめていた。


 必ず戻る。


 その言葉を信じている。信じられるだけの日々がある。


 軍靴の音が魔王領に響く。教会との戦いが——始まった。


 けれどリーリエの中では、もう一つの戦いも始まっていた。「守られるだけ」でいることとの——静かな戦い。


 城門の石段に座り、カインが消えた方角を見つめ続けた。日が傾き、空が橙色に染まっていく。マリカが毛布を持って来てくれた。フィルがそっと隣に座った。リュカが「旦那様は強いっすから、心配いらないっすよ」と言った。


 石段の冷たさが、薄い衣の上からでも伝わってくる。毛布の温もりが背中を包み、フィルの小さな手が隣にある。リュカの声が遠くなり、空が橙から藍色に変わっていく。


 心配していないわけではなかった。けれど——信じていた。「必ず戻る」と言った言葉を。信じられるだけの日々が——もう、積み重なっていた。


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