守られるだけでいいのか
戦略会議の部屋の前に——リーリエは立っていた。
扉は閉じている。厚い樫の扉越しに声が聞こえる。カインの低い声。魔族の将たちの緊張した声。地図を指す音。防衛陣形の議論。教会軍の進軍速度の推測。補給線。兵站。偵察報告。回廊には松明の明かりだけが揺れ、石壁にリーリエの影が細く伸びていた。
リーリエは扉に手をつき、中を覗いた。
カインがテーブルの前に立ち、地図を見下ろしていた。深紅の目が鋭い光を帯び、指先が防衛拠点を示している。横に立つリュカが偵察報告を読み上げ、ヴェルナーが数字をまとめている。魔族の将たちが真剣な顔で頷いている。
全員が——戦っていた。
カインは戦略を練っている。リュカは偵察に出ている。ヴェルナーは情報を整理している。マリカは城の維持と食事を守っている。フィルでさえ、小さな体で物資の仕分けを手伝っている。
従者たちが「リーリエ様のために戦う」と宣言した。辺境の領主が密かに手を差し伸べてくれた。聖騎士団長が自分の目で真実を確かめに来た。
皆が——何かをしている。自分の持ち場を守り、自分のできることをしている。
リーリエだけが——何もしていなかった。蚊帳の外。傍観者。教会にいた頃と同じ——「誰かに何かをされる存在」でしかない。
蚊帳の外だ。
守られるだけの存在。戦略には関われない。戦闘もできない。城の運営もわからない。情報収集もできない。
教会にいた頃と——何が違うのだろう。
あのときは「聖女」として祀り上げられ、何もさせてもらえなかった。ここでは「守るべき存在」として大切にされ、何もさせてもらえない。
どちらも——リーリエ自身の意志が、不在だ。
*
会議が終わった。
将たちが退出していく。カインが最後に出てきた。疲れた顔をしていた——普段は見せない疲労が、目の下の隈に表れていた。
「カインさん」
リーリエが声をかけた。
カインが足を止めた。リーリエを見た。
「私にできることは——ないのですか」
リーリエの声は穏やかだった。けれど——芯があった。これまでの「お願い」とは違う。問いかけであり、同時に——意志の表明だった。
カインが一瞬、目を瞬いた。
「お前は生きていればそれでいい」
いつもの答え。聞き慣れた言葉。カインなりの——最上級の優しさ。
けれど——今日のリーリエは、その言葉に満足しなかった。
「それだけでは——いたくないんです」
カインの表情が変わった。驚き。困惑。そして——戸惑い。
「皆が戦っています。カインさんが戦略を練り、リュカさんが偵察に出て、ヴェルナーさんが情報をまとめて、マリカさんが城を守って、フィルちゃんまで荷物を運んでいます。私だけが——何もしていない」
リーリエの手が胸の前で握られた。
「守られるだけの存在——それは、教会にいた頃の私と、何が違うんですか」
カインの目が——見開かれた。
リーリエの言葉が——刺さったのだ。
教会では聖女として祀り上げられ、意志を持つことを許されなかった。ここでは守られる存在として大切にされ、行動することを許されない。構図が違うだけで——リーリエの「意志の不在」は同じだ。
カインは——それに気づいていなかった。
「……俺は」
カインの声が——珍しく、詰まった。
「お前を守りたいだけだ。危険な目に遭わせたくない。それが——」
「わかっています」
リーリエが静かに遮った。
「カインさんが私を守ってくれていることは、わかっています。感謝しています。でも——私も、何かしたいんです。守られるだけは——もう、嫌です」
廊下に沈黙が落ちた。
カインの深紅の目とリーリエの薄い青紫の目が、向き合った。
カインの目に——複雑な感情が渦巻いていた。戸惑い。不安。そして——微かな、認めたくない感嘆。リーリエが変わっている。かつてで「どうでもいい」と呟いていた少女が——今、「何かしたい」と言っている。
「……わかった」
カインが低く言った。
「考えておく」
不器用な譲歩だった。即答ではない。「いいぞ」とは言えない。けれど「駄目だ」とも言わない。リーリエの意志を——受け止めようとしている。
「ありがとうございます」
リーリエが微かに笑った。
カインが目を逸らした。
「……寝ろ。明日も早い」
「まだ夕方です」
「……飯を食え」
「さっき食べました」
「……散歩でもしてこい」
話題を逸らそうとするカインに、リーリエは小さく首を振った。
「カインさんこそ——少し休んでください。目の下に隈がありますよ」
カインが顔を背けた。
「……余計なお世話だ」
その声は——ぶっきらぼうだったけれど、怒ってはいなかった。
*
夜、ベッドの中で天井を見つめた。
「守られるだけでは、いたくない」——自分でそう言ったことに、リーリエ自身が驚いていた。
かつての自分なら「どうでもいい」と思っていた。守られようが見捨てられようが、どちらでもよかった。
少し前の自分なら「怖い」と思っていた。戦いが始まるのが怖い。失うのが怖い。
今の自分は——「何かしたい」と思う。
守られるだけの存在。それは聖女制度の中の自分と何が違うのだろう。教会では「崇高な使命」の名のもとに利用され、ここでは「守る」の名のもとに何もさせてもらえない。どちらも「リーリエ自身の意志」がない。
変わりたい。
何かを——選びたい。
カインが教えてくれた言葉が、胸の中で響いた。
「犠牲じゃない。選択だ」
従者たちは選択した。カインのそばで戦うことを。リーリエのいる日常を守ることを。
リーリエも——選択したい。
まだ、何を選べるのかはわからない。戦闘はできない。魔法もない。身体は弱い。
けれど——「何かしたい」と思えたこと自体が、変化だった。
リーリエの中で——何かが、変わり始めていた。
目を閉じると、従者たちの顔が浮かんだ。リュカの琥珀色の目。ヴェルナーの銀縁の眼鏡。マリカの穏やかな微笑み。フィルの大きな瞳。そしてカインの——深紅の目。あの目に映る自分が、いつまでも「守られるだけの存在」でありたくない。
窓辺に灯る蝋燭の炎が、風に揺れた。揺れたけれど——消えなかった。
リーリエの決意もまた——揺れながらも、消えなかった。
明日からは違う。何ができるかはまだわからない。けれど「何もしない」を選ぶことだけは——もうしない。教会にいた頃の自分は、全てを受け入れるしかなかった。今は——選べる。カインが教えてくれた言葉が、心の中で鳴っている。「犠牲じゃない。選択だ」。
リーリエは——選択する。




