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魔王は死にたがりの聖女を拾い、今日も溺愛で生かしにかかる  作者: 蒼月よる


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世界の声

 世界が叫んでいた。


 聖女を返せ。聖女を返せ。聖女を返せ。


 その声は風に乗り、山を越え、海を渡って大陸の隅々にまで広がっていた。教会の鐘が毎朝打ち鳴らされ、説教壇から司祭が声を枯らし、信者たちが路上で祈りの蝋燭を灯す。聖女の名が何百万の口から繰り返されるたびに——リーリエという個人は薄れ、「聖女」という概念だけが膨れ上がっていく。


 魔王城に届く報告の束は、日を追うごとに厚くなっていた。


「東方のクレスト王国で大規模な祈祷集会が開催されました。参加者は推定三千人。聖女の救出を求める請願書に、一万筆以上の署名が集まっているとのことです」


 ヴェルナーが淡々と読み上げる。銀縁の眼鏡の奥で、灰色の目が紙面を追っている。声に感情はない。事実だけを並べていく。けれどその事実の一つ一つが、重い。


「南方のメルカ公国では、魔王討伐を求める市民デモが三日間続いています。公国議会が正式に教会への軍事協力を決議しました」


「西方のラインベルク自由都市連合は、魔王領との一切の交易を禁止する布告を出しました」


「北方の遊牧諸部族にまで、教会の使者が派遣されています。『聖女を救え』の檄文が、大陸全土に——」


「もういい」


 カインが遮った。


 広間に沈黙が落ちた。暖炉の薪が爆ぜる音だけが、ぱちりと響いた。カインは腕を組み、目を閉じていた。眉間の皺が深い。五百年分の疲労が、その顔に刻まれている。


「世論など気にするな。あいつらは真実を知らない。知らないまま、教会に踊らされているだけだ」


 その通りだった。世界中の人々が「聖女を救え」と叫んでいる。純粋な善意から。聖女が苦しんでいると信じて。魔王が聖女を囚えていると信じて。


 誰も知らない。聖女を「救う」とは、少女を炉にくべることだと。聖女が逃げ出したのは、終わらない苦痛から逃れるためだと。「魔王」が聖女を守っているのだと。


 世界中の善意が——嘘の上に成り立っている。


 真心が歪められ、祈りが兵器に変わる。それが——教会の手法だった。


 リーリエは広間の隅で、膝の上の手を握りしめていた。指先が冷たい。紋章が微かに脈打っている。世界中で自分の名が叫ばれているのに——自分自身は、どこにもいない。


    *


 部屋に戻った。


 窓辺に立ち、外を見つめた。魔王領の冬景色。灰色の空に、雲が低く垂れ込めている。枯れ木の枝が風に揺れ、遠くの山脈が霞んで見える。冬の空気は冷たく乾いていて、鼻の奥がつんと痛む。


 この窓の向こうに——世界がある。


 その世界が、リーリエを求めている。「聖女を返せ」と。「戻ってきてくれ」と。一万人の署名。三千人の祈り。大陸全土を覆う声。


 みんなが——心配してくれている。


 リーリエのことを想って、涙を流してくれている。聖女が解放されるよう、祈ってくれている。蝋燭を灯し、跪き、両手を組んで。


 その善意は——本物だ。嘘ではない。人々の祈りは真心から出ている。


 けれどその真心が——嘘の上に建てられていることを、誰も知らない。


「……善意が、暴力になるんですね」


 リーリエは窓に額をつけて呟いた。冷たいガラスが肌に触れた。額に沁みる冷たさが、かえって頭の中を鮮明にする。


 善意が暴力になる。それは——聖女制度の本質だった。教会は善意の名のもとに聖女を犠牲にする。世界は善意の名のもとに聖女の帰還を求める。誰も悪意はない。誰も傷つけるつもりはない。けれど——結果として、リーリエの声だけが、どこにも届かない。


 自分の意志が存在しないものとして扱われる。四十二通の返還要求にも、一万筆の署名にも、三千人の祈りにも——「リーリエはどう思っているのか」という問いは、一つもない。


 それが——一番、苦しい。


 ノックの音がした。控えめな、二回の短いノック。


「リーリエ様」


 マリカの声だった。扉を開けると、マリカが食事の盆を持って立っていた。温かいスープの匂いがした。かぶとにんじんの甘い香りが、冬の冷えた空気に柔らかく広がる。


「お食事をお持ちしました。今日は——リーリエ様がお好きなかぶのスープです」


 リーリエは盆を受け取ろうとしたが——マリカが一歩、部屋の中に入ってきた。スリッパが石の床を踏む音が、小さく響いた。


「リーリエ様」


 マリカの声が、いつもより真っ直ぐだった。普段の穏やかさの中に、硬い芯がある。


「世界の声と、リーリエ様の声。どちらが大切かは——明らかです」


 リーリエが目を見開いた。


「リーリエ様のお気持ちが、一番大事です。世界が何を言っても——リーリエ様がここにいたいと思ってくださるなら、ここがリーリエ様の場所です」


 マリカの目は——穏やかだった。けれどその穏やかさの奥に、揺るぎない確信があった。何十年もカインに仕えてきた女性の、静かな強さだ。世界中の善意よりも目の前の一人を選ぶ——その覚悟が、マリカの瞳には宿っていた。


「……ありがとう、マリカさん」


 リーリエが小さく笑った。目尻がかすかに下がる——力が抜けたような笑み。目が笑っていない穏やかな笑みとは違う。微かだけれど、確かな温度を持った表情だった。


 マリカが微笑み返し、盆を置いて部屋を出ていった。エプロンの裾が揺れ、廊下に消えていく。


 リーリエはスープに口をつけた。かぶの甘さが広がった。温かい。胸の奥まで染みていく。舌の上でとろけるような柔らかさ。マリカの手が、この一杯に込められている。


 世界は「聖女を返せ」と叫ぶ。


 しかしリーリエが「帰りたい場所」は——もう教会ではない。


 この城だ。この食卓だ。この人たちのそばだ。


 その声は——世界には届かない。一万人の署名には勝てない。三千人の祈りには敵わない。数の暴力の前に、一人の声はあまりにも小さい。


 けれど——ここにいる人たちには、届いている。


 マリカの「一番大事です」という言葉。カインの「お前がここにいる、それが答えだ」という声。フィルの笑顔。リュカの軽口。ヴェルナーの静かな頷き。


 それだけで——今は、十分だった。


 スープを飲み干した。器の底に、かぶの欠片が一つ残っていた。スプーンで掬い、口に運んだ。


 温かかった。


 窓の外で、風が鳴った。冬の風だ。魔王領の森を揺らし、城壁に当たって唸り声を上げる。世界中から押し寄せる圧力が、風の形をしてこの城を揺さぶっているようだった。


 リーリエは空の器を抱えたまま、しばらく窓辺に座っていた。


 世界の声と、自分の声。マリカが言ったことが胸の中で反響している。世界が何を言っても——自分の気持ちが一番大事。そんな単純な言葉が、今のリーリエには何よりも重い。


 だって——教会にいた頃は、誰もそう言ってくれなかった。「世界のために」「結界のために」「人々のために」。いつもリーリエ以外の誰かのためだった。リーリエ自身のために生きることを、許してくれる人がいなかった。


 今は——いる。


 この城に。この食卓に。


 リーリエは器をテーブルに置き、毛布を引き上げた。目を閉じた。


 世界の叫び声は遠く、マリカのスープの味は近い。どちらが本当のことかは——もう、わかり始めていた。


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