大司教の手紙
書簡は白い封蝋で封じられていた。
蝋の表面は滑らかで、まだ新しい。旅の間も丁寧に扱われてきたのだろう。教会の紋章——銀の炎を象った印が、蝋の上に深く刻まれている。細部まで精緻な型押し。教会の権威を一滴も零さぬよう、封蝋ひとつにまで神経が行き届いている。
リーリエにとって、見慣れた紋章だった。十五歳で聖女に覚醒してから二年間、毎日見ていた紋章。祭壇に。法衣に。聖堂の壁に。そして自分の左胸に刻まれた紋章と同じ——聖なる炎の印。かつてはそれを神聖なものだと信じていた。今は——鎖の刻印にしか見えなかった。
教会からの使者が、朝に到着した。
白い法衣を纏った若い聖職者が、魔王城の門前で書簡を差し出した。戦闘の意図はなかった。両手を広げ、武器を持たぬことを示す古い作法。しかし無害に見えるその姿が、かえって不気味だった。笑みすら浮かべていた。聖女を「お迎え」に来た使者の、善意の笑み。リュカが書簡を受け取り、ヴェルナーが封蝋と紙質を確認し、カインに報告した。
「大司教からの書簡だ。宛先は——リーリエ」
カインの声は硬かった。言葉の温度が、一段下がっていた。広間の空気が張り詰めた。
広間にいたリーリエが、書簡を見つめた。白い封蝋が蝋燭の光を受けて鈍く光っている。
「……読みます」
カインが眉を顰めた。読ませたくない——その気持ちが表情に出ていた。けれどリーリエが手を伸ばすと、カインは黙って書簡を渡した。
リーリエは封を切り、中の紙を広げた。
大司教グレゴリウス・ヴァン・オルデンの筆跡だった。流麗で整った文字。一筆一筆に教養と自制が表れている。
文面を読んだ。インクの匂いが微かに残っている。上質な墨を使っている。紙は滑らかで、触れると指先にかすかな温もりがある——封蝋を溶かす際の熱が、まだ残っていた。
「敬愛するリーリエ様へ。
お身体の具合はいかがでしょうか。長い間、厳しい環境に置かれているのではないかと、私どもは日々案じております。
結界の均衡が乱れ、辺境ではいくつかの被害が報告されております。リーリエ様のお力がなければ、この世界は安寧を保つことが叶いません。
どうか、お戻りいただけませんか。
教会はリーリエ様を心よりお待ちしております。リーリエ様のお帰りが、この世界の希望となるのです。
皆が、リーリエ様を想っています。
——グレゴリウス・ヴァン・オルデン」
丁寧な文面だった。穏やかで、思いやりに満ちた言葉。知らない人が読めば——慈悲深い大司教が、囚われた聖女を心から案じている手紙に見えるだろう。
けれどリーリエには——行間が読めた。
「お身体の具合」——それは「炉の燃料としての寿命は残っているか」という計算。
「厳しい環境」——魔王城の暮らしが厳しいのではなく、「結界の維持に貢献していない状態」が厳しいという意味。
「結界の均衡が乱れ」——リーリエへの罪悪感を煽るための布石。
「お力がなければ」——「あなたの命がなければ」の婉曲表現。
「お帰りが、この世界の希望となる」——「炉に戻れ」の美しい言い換え。
一行一行が——刃だった。優しい言葉の形をした、冷たい計算。流麗な文字の美しさが、かえって残酷だった。この筆致で何人の聖女を「お迎え」してきたのだろう。
リーリエの手が震えた。
羊皮紙を持つ指が白くなるほど握りしめていた。紙の端が折れた。
怒りではなかった。恐怖でもなかった。もっと深い——虚しさだった。この文面のどこにも、「リーリエ」という個人はいない。「聖女」という機能があるだけ。自分は人間ではなく——装置。教会にとって、ずっとそうだった。
「リーリエ」
カインの声が聞こえた。
リーリエが顔を上げる前に——カインの手が伸び、書簡を取り上げた。
文面を一瞥した。深紅の目が、文字の上を走る。
そして——片手で、書簡を握りつぶした。
紙が潰れる音がした。カインの拳が白くなるほど——強く。
「こんなものを読む必要はない」
カインの声は静かだった。静かすぎた。怒鳴るよりも——この静かな怒りのほうが、遥かに恐ろしかった。
握りつぶされた書簡がテーブルに落ちた。
リーリエはカインの拳を見つめた。白い指。浮き出た血管。
「……怒って、くれるんですね」
リーリエの声は小さかった。
カインが顔を背けた。
「当たり前だ」
即答だった。一秒の間もなく。カインにとって、それは呼吸のように自然なことなのだ。
「当たり前じゃないです。教会にいた頃——私のために怒ってくれた人は、いませんでした」
司祭たちは穏やかだった。優しかった。けれどリーリエが泣いても、苦しんでも、怒る者はいなかった。「聖女の試練です」と微笑んだ。慈愛の顔をして——リーリエの苦痛を「仕方のないこと」として受け流した。
カインの拳が——さらに強く握られた。
「聖女を道具として扱い、丁寧な言葉で包装して、『希望』などと——」
カインの声が途切れた。深い呼吸を一つ。感情を押し込めるような呼吸。
「あいつは変わっていない。五百年前から——何も」
その言葉に、リーリエは引っかかった。五百年前。大司教は六十二歳のはずだ。五百年前を知るはずがない。けれどカインの言葉は——教会の「体質」を言っているのか、それとも——。
考える間もなく、カインがリーリエの肩に手を置いた。
「あいつの言葉は忘れろ。お前は——道具じゃない」
温かい手だった。怒りで震えている手が——リーリエの肩に触れた瞬間、優しくなった。
リーリエは目を閉じた。
書簡は握りつぶされた。けれど大司教の言葉は消えない。「世界の安寧」の名のもとに、リーリエの命を求める声は——これからも、届き続けるだろう。
それでも——今は。
カインの手の温もりが——書簡の冷たさを、少しだけ溶かしてくれていた。
テーブルの上で、握りつぶされた書簡が小さな白い塊になっている。大司教の流麗な文字は、もう読めない。けれどあの言葉は消えない。「希望」も「安寧」も「お待ちしております」も——すべて覚えている。
それでも——カインの怒りが、リーリエを守っていた。「道具じゃない」と言ってくれた声が。誰かがリーリエのために怒ること。それは教会にいた頃には決してなかった奇跡だった。
奇跡。その言葉は大げさかもしれない。けれどリーリエにとっては——大聖堂のステンドグラスが降り注ぐ光よりも、カインの握りつぶされた拳のほうが、ずっと聖なるものに思えた。
夜になってもその感覚は消えなかった。ベッドの中で、リーリエは天井を見つめていた。蝋燭の炎がゆらゆらと踊り、石壁に柔らかい影を落としている。大司教の文面が記憶の中で反復する。「お身体の具合は」「世界の希望」「お待ちしております」——一行一行が、美しい言葉で包装された命令だった。
それに対してカインは——何の装飾もなく、「道具じゃない」と言った。たった一言。けれどその一言には、大司教の書簡の何十行分よりも重い真実があった。




