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魔王は死にたがりの聖女を拾い、今日も溺愛で生かしにかかる  作者: 蒼月よる


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反旗の種

 密使が来たのは、夜だった。


 カインの書斎に、ヴェルナーが一人の人間を連れてきた。フードを目深に被った痩身の男。旅の疲労が顔に滲んでいるが、背筋はまっすぐだった。


「辺境領主ベルンハルト・フォン・リーゲン家の使者と名乗っています。カイン様への親書を携えているとのことです」


 ヴェルナーの声は平坦だったが、眼鏡の奥の目には警戒の色があった。


 カインは書斎の椅子に深く腰掛け、男を見据えた。深紅の目が、男の全身を射抜くように観察する。


「話せ」


 短い命令。


 男がフードを下ろした。三十代半ばだろうか。日に焼けた肌と、荒れた手。騎士や貴族ではなく——実務に携わる者の手だ。


「魔王カイン殿。リーゲン辺境伯より、書状をお預かりしております」


 男が懐から封書を取り出し、テーブルに置いた。カインは動かなかった。ヴェルナーが書状を確認し、封蝋を改め、カインに渡した。


 カインが封を切り、書状を読んだ。


 沈黙が続いた。


「……ほう」


 低い声が漏れた。


 カインが書状をテーブルに置き、男を見た。


「お前の主は——教会に不満がある、と」


「はい。リーゲン辺境伯は、教会の独裁的な政治に長年疑問を抱いておられます。今回の聖女救出宣言は——あまりにも一方的であると」


「具体的に何を望んでいる」


「密かに連絡を取りたいと。すぐに公然と教会に反旗を翻すことはできません。異端として処分されます。しかし——水面下で協力できることがあるのではないかと」


 カインは男の目を見つめたまま、動かなかった。


 数百年の経験が——この男の言葉を解析していた。声の震え方。目の動き。手の位置。嘘をつく人間の特徴を、カインは熟知している。五百年の間に——嘘つきには何千と会ってきた。


「……嘘はついていない」


 カインが独り言のように呟いた。声には確信があった。五百年の間に出会った人間は無数にいた。嘘をつく者。真実を語る者。その違いを、カインは目と耳と——直感で見分ける。この男の声は震えていたが、目は逸れなかった。


「だが全面的に信じるのは早い。教会が仕込んだ罠の可能性は——」


「ございません。リーゲン辺境伯は——教会に息子を殺されています」


 男の声が、初めて揺れた。


「十年前。辺境伯の長男が教会の方針に異を唱え、異端の嫌疑をかけられました。証拠は何もなかった。それでも——処刑されました」


 書斎の空気が——重くなった。


 カインは目を閉じた。瞼の裏に、何が見えているのだろう。五百年前にも——こうして、密かに手を差し伸べてきた者がいたのかもしれない。そしてその手は——握り返される前に断たれたのかもしれない。


「……わかった。今すぐ答えは出せない。だが——門戸は閉じない」


「それだけで十分です」


 男が深く頭を下げた。額が地面に触れるほどの、深い礼。それは使者としての礼節ではなく——個人の感謝だった。長年の沈黙を破って手を伸ばすことの恐怖を、この男は身をもって知っている。門戸を閉じないという言葉だけでも——希望になるのだ。


    *


 密使が去った後、カインはしばらく書斎に一人でいた。


 書状をもう一度読み直した。リーゲン辺境伯の筆跡は几帳面で、文面は慎重だった。感情的な訴えではなく、理性的な提案。教会の独裁に疑問を持つ領主は他にもいるが、公然と反対できない現状。密かな連絡網の構築。情報の共有。


 カインの口元に、苦い笑みが浮かんだ。


 五百年前にも——同じことがあった。教会の横暴に声を上げられない者たちが、密かに手を取り合おうとした。あのときは——失敗した。教会の情報網が、密かな連帯を潰した。


 今度は——どうだろうか。


 カインは立ち上がり、書斎を出た。


 リーリエの部屋を訪ねた。


 扉をノックすると、「はい」と穏やかな声が返ってきた。リーリエは窓辺で本を読んでいた。入ってきたカインを見て、本を閉じた。


「辺境の領主が、接触してきた」


 カインは椅子に座らず、壁に背を預けて立ったまま告げた。


「味方になるかもしれん」


 リーリエの目が——わずかに広がった。


「教会に——全員が従っているわけではないんですね」


「ああ。教会の独裁に疑問を持つ者は少なくない。ただ、声を上げれば異端として処分される。だから黙っている。——黙っているだけで、消えたわけじゃない」


 リーリエの表情が——変わった。


 これまで、世界は一枚岩だと思っていた。教会が宣言し、各国が賛同し、世論が「聖女を返せ」と叫ぶ。魔王城は世界の敵。リーリエは世界から切り離された存在。


 けれど——違った。


 世界は一枚岩ではない。声を上げられないだけで、疑問を持つ者がいる。教会の影に怯えながらも、手を伸ばそうとする者がいる。


「……世界は、味方じゃないと思っていました」


 リーリエが静かに言った。


「全部敵だと。教会も、各国も、市民も——みんな、私を連れ戻したいのだと」


「全部が敵なら、俺は五百年前に諦めていた」


 カインの声は低かったが——どこか温かかった。


「世界はお前が思っているほど一枚岩じゃない。教会の嘘を見抜ける人間がいる。声を上げる勇気を持つ人間がいる。少ないが——いる」


 リーリエの目に——光が灯った。


 希望と呼ぶにはまだ小さい。けれど——暗闇の中で初めて見つけた星のような、微かな輝き。


「ありがとうございます。——教えてくれて」


「礼を言われることじゃない」


 カインが壁から背を離し、部屋を出ようとした。


「カインさん」


 リーリエが呼び止めた。


 カインが振り返った。


「五百年——ずっと、一人で探していたんですね。味方を」


 カインの足が止まった。


 深紅の目がリーリエを見た。そこには——何百年分の疲労と、それでもなお折れなかった意志が、静かに横たわっていた。


「……一人じゃない。リュカがいた。ヴェルナーがいた。そして今は——」


 カインが言葉を切った。視線を逸らし、扉に手をかけた。


「……寝ろ。明日も早い」


 扉が閉まった。


 リーリエは窓の外を見た。冬の夜空に、星が見えた。


 世界は一枚岩ではない。教会の影の中にも、光を探す者がいる。その事実が——リーリエの中に、小さな希望を灯していた。


 教会にいた頃、世界は灰色の壁で閉ざされていた。壁の向こうに何があるのかも知らず、知る気力もなかった。今——壁の向こうに、星のような光が見え始めている。まだ遠い。まだ小さい。けれど——確かに在る。


 カインが「そして今は——」と言いかけて、言葉を飲み込んだこと。その先に何が来るはずだったのか。リーリエはベッドの中でそれを考え、やがて——微かに頬が熱くなるのを感じて、毛布に顔を埋めた。


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