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魔王は死にたがりの聖女を拾い、今日も溺愛で生かしにかかる  作者: 蒼月よる


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封じられた部屋

 魔王城には——入ってはいけない場所がある。


 リーリエがこの城で暮らし始めた頃、リュカが教えてくれた。「お嬢、城の中は自由に歩いていいっすよ。ただ——東棟の奥だけは、入らないでくださいね」。理由は聞かなかった。聞く気力もなかった。


 あの頃のリーリエには、城のどこに何があるかなど、どうでもよかったから。


 けれど今は——違った。


 午後の散歩の途中だった。


 東棟の回廊を歩いていた。特に理由はなかった。いつもとは違う道を歩きたくなっただけだ。石壁の廊下は薄暗く、窓が少ない。空気がひんやりとしている。埃と古い石材の匂いが鼻を掠め、足元の石畳は他の棟よりも冷たく、靴底を通してその冷気が伝わってきた。他の場所に比べて——人の気配がなかった。


 回廊の突き当たりに、扉があった。


 重厚な木製の扉。他の部屋の扉とは明らかに違っていた。木材そのものが異なる。城内の他の扉は樫や楢だが、この扉は——白い木だった。銀白色の木目が走り、触れる前からかすかな温もりが伝わってくる。表面に古い紋様が刻まれている。術式だ。教会で見覚えのある——封印の術式に似ているが、もっと古い。もっと深い。何百年も前に刻まれたであろう紋様が、歳月に磨かれて滑らかになっていた。教会の術式が四重の幾何学模様であるのに対し、この紋様は五重——より古い時代の、より原初的な封印体系。


 そして——微かに光っていた。


 淡い金色の光が、紋様の線に沿って流れている。呼吸するように、ゆっくりと明滅していた。


 リーリエは足を止めた。呼吸が浅くなっている。心臓が速く打つ。紋章が——反応している。扉の向こうにあるものと、リーリエの中の聖女の力が、共鳴を始めている。


 扉の前に、立った。


 引き寄せられるように——手を伸ばした。


 指先が扉に触れた瞬間——温もりを感じた。石と木でできた扉が、人肌のように温かかった。冬の城内の冷たい空気の中で、この扉だけが——温かい。


 そして。


 声が——聞こえた。


 昨夜の夢の中の声と同じ。女性の声。遠くから、水底から聞こえるような、かすかな声。


「……聞いて……」


 リーリエの心臓が跳ねた。


 夢ではない。起きている。目の前に扉がある。この扉の向こうから——あの声が聞こえている。


「……こ、ここに——」


 手を扉の表面に押し当てた。温もりが強くなった。声が近くなった。


「そこには入るな」


 鋭い声が背後から飛んできた。


 リーリエが振り返ると——カインが立っていた。外套の裾が揺れている。いつ来たのかわからない。足音すら聞こえなかった。


 回廊の暗がりの中で、深紅の目が燃えるように光っていた。表情が——これまでに見たことがないほど厳しかった。眉間に深い皺が刻まれ、口元が一文字に結ばれている。怒りではなかった。もっと深い——恐怖に似た何かが、その目にあった。


「カインさん——」


「離れろ」


 カインの声は低く、有無を言わさなかった。命令。それも——切迫した命令。


 リーリエは反射的に扉から手を離した。温もりが消えた。声も——途切れた。


「中に——何があるんですか」


 リーリエが聞いた。声は震えなかった。怖くはなかった。カインの表情に怯えはしたが——あの扉の向こうにあるものが怖いとは、不思議と思わなかった。


「入るなと言った」


「入りません。でも——知りたいです。何があるんですか」


 カインの厳しい表情が——わずかに揺らいだ。怒りが薄れ、代わりに——痛みが滲んだ。


「……俺の、大切なものだ」


 低い声。搾り出すような声。


「それ以上は——今は、聞くな」


 リーリエは口を閉じた。


 問い詰めることはできた。けれど——カインの目に浮かぶ痛みを見て、それはできなかった。あの痛みは本物だ。何百年もの重みを持つ痛み。軽々しく触れてはいけない。


    *


 カインがリーリエの手を取った。


 引っ張るようにではなく——導くように。大きな手が、リーリエの小さな手を包み込んだ。温かかった。扉の温もりとは違う——生きている温もり。


 二人は東棟の回廊を戻り、中庭に出た。冬の陽光が眩しかった。風の匂いが変わった。石と埃の冷えた匂いから、枯れ葉と土の匂いへ。暗い回廊から出た目に、光が染みた。白い光が目の奥を刺し、リーリエは思わず目を細めた。けれどカインの手はリーリエを引く力を変えなかった。確実に、けれど優しく。この人の手の温もりが、扉の向こうで聞こえた声の余韻を——少しだけ、和らげた。


 カインがリーリエの手を放した。


 そして——ふいに、背中を向けた。


「……悪かった」


 低い声。


「きつく言いすぎた」


 リーリエは目を丸くした。指先が微かに痺れていた。扉の温もりの名残が、まだ掌に染みついている。


 カインが——謝っている。


 この人が謝るのを、リーリエは見たことがなかった。命令し、否定し、素っ気なく去る——それがカインだ。間違いを認めても、「ああ」と一言で済ませる人だ。


 それが——「きつく言いすぎた」と、明確に謝罪している。


「大切なもの、なんですね」


 リーリエが静かに言った。


 カインが振り返った。深紅の目が——遠くを見ていた。中庭の冬枯れの木々を見ているのではなく、もっと遠い——何百年も前の風景を見ているような目。


「ああ……もう、取り返せないものだ」


 その声は——静かだった。怒りも恐怖も消え、ただ——深い悲しみだけが、そこにあった。


 取り返せないもの。


 失ったもの。


 何百年も前に、この人が失って、今もなお——あの部屋に封じて守っている、大切なもの。


 リーリエは聞きたかった。それが何なのか。あの扉の向こうで微かに光り、温もりを放ち、声を発するものの正体を。


 けれど——今は聞けなかった。カインの目にある痛みが、あまりにも深かったから。


「……いつか、教えてくださいね」


 リーリエがそっと言った。


 カインは答えなかった。ただ——リーリエを見た。深紅の目が、リーリエの薄い青紫の瞳を捉えた。


 何秒か。何十秒か。時間が——止まったように感じた。


 カインが目を逸らした。


「……ああ」


 小さな声だった。約束とも返事ともつかない——けれど、確かな頷きだった。


「もう取り返せないもの」——カインの目に浮かんだ遠い痛みの正体を、リーリエはまだ知らない。


 だが——知りたいと思った。この人の過去を。この人の痛みを。この人が、五百年もの間、たった一人で抱えてきたものを。


 窓の外で、風が唸った。冬の終わりを告げるには早すぎる風だったが、空気の匂いがかすかに変わっていた。季節が動いている。世界が動いている。


 あの扉の向こうに眠るものが——やがて、全ての答えになるのだろう。リーリエはまだ知らない。けれど予感だけは——胸の奥で静かに脈打っていた。


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