眠れない夜
夢を見た。
白い光の中にいた。どこまでも続く白。天井も床も壁もない、ただ光だけがある空間。温かくもなく、冷たくもない。時間が止まったような——あるいは、時間そのものが存在しないような場所。
足元に感触はなかった。立っているのか、浮いているのか、それすら曖昧だった。自分の手を見ると、輪郭が淡く光を帯びている。左胸の聖女の紋章だけが、くっきりと白銀に光っていた。この場所と——紋章が、共鳴しているような感覚があった。
声が聞こえた。
女性の声だった。
優しい声。けれど——切迫していた。何かを伝えようとしている。必死に。懸命に。声が震えている。
「……聞いて……」
声が近づいた。リーリエの耳元で、囁くように。
「……方法が……あるの……」
断片的だった。言葉が欠けている。まるで——長い時間をかけて擦り減った声のように、ところどころが途切れていた。
「……お願い……聞いて……」
リーリエは声の主を探した。白い光の中で、目を凝らした。何も見えない。声だけが——すぐそばにある。
「あなたは、誰ですか」
リーリエが問うた。
声が——一瞬、止まった。
そして。
「……ごめん、なさい……まだ……届かない……」
悲しい声だった。何百年もの悲しみが凝縮されたような、深い悲しみの声。
白い光が——揺らいだ。
リーリエの意識が浮上する。夢が壊れていく。声が遠ざかる。
「……待って」
リーリエは手を伸ばした。白い光の中に、手だけが見えた。自分の手。華奢な手。教会の祭壇で祈っていた手。カインが差し出すミルクを受け取る手。その手が——光の向こうに届かない。声が遠ざかる。光が薄れていく。
*
目が覚めた。
汗をかいていた。寝巻きが背中に貼りついている。心臓が早く打っていた。
暗い部屋だった。窓の外に冬の月が浮かんでいる。白い光が——夢の中の光と重なって、一瞬、まだ夢の中にいるような錯覚を覚えた。
リーリエはベッドの上で膝を抱えた。
あの声は何だったのか。
初めて聞いたわけではなかった。以前から——眠りの浅い夜に、かすかに聞こえることがあった。女性の声。何かを伝えようとしている声。けれど今夜は——これまでより遥かに鮮明だった。言葉が聞き取れた。
「方法がある」。
何の方法だろう。
リーリエにはわからなかった。けれど——あの声が敵ではないことは、直感でわかった。あの悲しみは、嘘ではない。あの切実さは、作りものではない。
こんこん、と扉が鳴った。
静かなノック。深夜のノック。
「……はい」
リーリエが応えると、扉が開いた。
カインが立っていた。
片手に白いカップを持っている。温かいミルク。蜂蜜の甘い匂いが、廊下から漂ってきた。
「……眠れないのか」
「なぜ——わかったんですか」
「お前の部屋の灯りが、消えなかった」
リーリエは——息を呑んだ。
灯りが消えなかった。それはつまり——カインが、リーリエの部屋の灯りを見ていたということだ。深夜に。自分の部屋から、あるいは廊下から——リーリエの部屋の窓に灯る明かりを、見守っていたということだ。
カインが部屋に入った。椅子を引き寄せ、窓際に座った。ミルクのカップをリーリエに差し出す。
「飲め」
リーリエはカップを受け取った。両手で包むと、温かさが指先から伝わってきた。
一口飲んだ。甘かった。温かかった。蜂蜜の優しい甘さが、胸の奥まで沁みた。
「夢を見ました」
リーリエは膝を抱えたまま、ぽつりと言った。
「知らない女の人の声が——聞こえたんです。以前から時々聞こえていたんですけど、今夜は——はっきりと」
カインのカップを持つ手が——止まった。
ほんの一瞬。気づかないほどの停止。けれどリーリエは見ていなかった。自分の膝を見つめながら話していたから。
「何を言っていた」
カインの声が——わずかに低くなった。
「『聞いて』と。『方法がある』と。——でも、途切れ途切れで、よくわかりませんでした」
「……悪い夢か?」
「悪くは——なかったです」
リーリエが顔を上げた。薄い青紫の瞳が、暗い部屋の中でカインを見つめた。
「悲しい夢でした。あの声の人は——すごく、悲しそうでした。何かを伝えたいのに、伝えられない。それがとても——つらそうで」
カインは黙っていた。
椅子に座ったまま、カップを両手で握り、床を見つめていた。深紅の目に——何かが揺れていた。
リーリエには見えなかった。暗い部屋の中で、カインの表情は読めなかった。けれど——空気が変わったことは感じた。カインの纏う空気が、一瞬だけ——凍ったように冷たくなった。
「カインさん?」
「……何でもない」
カインが顔を上げた。いつもの無表情に戻っていた。
「夢は夢だ。気にするな。——ミルクを飲んだら寝ろ」
ぶっきらぼうな声。けれどその声は——わずかに震えていた。
リーリエはミルクを飲み干した。空のカップをサイドテーブルに置いた。
「……ありがとうございます。カインさん」
「何がだ」
「灯りを、見ていてくれて」
カインが——目を逸らした。
「……たまたまだ」
「たまたま、深夜に温かいミルクを作ったんですか」
「……寝ろ」
カインが立ち上がり、部屋を出ていった。扉が閉まる音がした。
リーリエは毛布を引き上げ、目を閉じた。
暗い部屋に、冬の月明かりだけが差し込んでいる。枕に頭を沈めると、ミルクの甘い余韻がまだ口の中に残っていた。蜂蜜の温かさ。カインの声の低さ。「たまたまだ」と言ったときの、わずかに逸らした視線。
夢の中の声は——何を伝えようとしていたのか。まだわからない。ただ、その声が悲しかったことだけは覚えている。何百年もの悲しみを凝縮したような、深い悲しみの声。あの声は——助けを求めていたのだろうか。それとも——助けを差し伸べようとしていたのだろうか。
そして——カインがあの話を聞いたとき、ほんの一瞬だけ見せた動揺。「知らない女の人の声」——その言葉に、カインは反応した。
あの声の主を——カインは、知っているのだろうか。
眠りが近づいてきた。ミルクの温かさが体の芯まで届いている。
今夜は——眠れそうだった。
毛布の中で、リーリエは無意識に左胸に手を当てた。紋章の微かな温もり。夢の中の白い光と、同じ温度。それは偶然だろうか——それとも、聖女としての力が、あの声と繋がっているのだろうか。
答えは出ないまま、眠りが訪れた。最後に思ったのは——カインの手で淹れたミルクの温かさと、夢の中の声の悲しさ。その二つが、奇妙に似ていた。どちらも——誰かを想う温度だった。




