団長の目
魔王領の辺境にある町は——ハーゲンといった。
レオンハルトは外套のフードを深く被り、町の大通りを歩いていた。腰の剣は外套の下に隠している。聖騎士の甲冑は脱いできた。今の彼は——旅の傭兵に見えるだろう。ただし背筋の伸び方と、足運びの正確さが——鍛え上げられた騎士のそれだった。
町は思ったより大きかった。石造りの建物が通りに沿って並び、中央に広場がある。冬の市場が開かれていて、野菜や干し肉、毛皮の外套が売られていた。露店の商人が威勢のいい声を上げ、買い物客が品定めをしている。
人間がいた。
レオンハルトは目を見開いた。魔族だけではない。角のない、尖った耳のない、普通の人間が——魔族と一緒に買い物をしている。子供たちが走り回り、人間の少年と魔族の少女が追いかけっこをしていた。笑い声が冬の空気に響いている。少女の小さな角に、少年が手作りの花飾りをかけて走り去る。少女が笑いながら追いかけていく。
これが——魔王の領地。
教会が語る「魔王の暴政」「魔族の恐怖支配」は——ここには、影も形もなかった。
レオンハルトの右手が、無意識に剣の柄を握っていた。けれどそれは戦いへの備えではなく——自分の中で崩れ始めたものを、掴んで支えようとする仕草だった。
*
レオンハルトは町外れの酒場に入った。
薄暗い店内に、魔族と人間が混じり合って座っている。暖炉の火が揺れ、麦酒の匂いが漂っている。壁には鹿の角が飾られ、天井の梁からは乾燥した薬草が束ねて吊るされていた。暖かい空気が、外の冬の寒さを忘れさせる。
レオンハルトはカウンターに座り、麦酒を一杯頼んだ。木のジョッキに注がれた琥珀色の液体を、一口含む。苦い。けれど喉の奥で温かさが広がる。
隣に座っていた魔族の老人が、レオンハルトをちらりと見た。白い髭を蓄えた、小さな角を持つ老人。目が穏やかだった。皺の深い顔に、長い年月の知恵が刻まれている。
「旅の方かね」
「ああ……傭兵をしている」
「ほう。この辺りは仕事がないぞ。穏やかなところだからな」
穏やかなところ。
その言葉が——レオンハルトの胸に刺さった。
「このあたりは——魔王の領地だと聞いたが」
「そうだとも。カイン様の領地だ」
老人が麦酒を一口飲み、にこりと笑った。
「怖い方だと思うかね? 外の連中はそう言うだろうな。魔王だ、人類の敵だ、と。だがな——」
老人が暖炉の火を見つめた。炎が老人の目に反射して、琥珀色に揺れた。
「あの方は何百年もこの地を守ってくださっている。結界の穴が開けば駆けつけ、災厄を退け、民を守ってくださる。怖い顔をしていらっしゃるが——優しい方だよ。不器用にな」
レオンハルトは麦酒のジョッキを握ったまま、黙って聞いていた。
「税も重くない。法は公正だ。人間も魔族も、ここでは同じ扱いだ。教会の土地では——そうはいかんだろう?」
老人の目に、皮肉が浮かんだ。それは教会への敵意ではなく——長い人生で見てきた事実を語る者の、穏やかな確信だった。
レオンハルトは答えられなかった。
教会の土地では、魔族は排斥の対象だ。人間と魔族が同じ市場で買い物をすることなど、あり得ない。教会直轄地では魔族は異端として追われ、見つかれば投獄される。ここでは——それが当たり前として成り立っている。人間の子供が魔族の少女と遊び、魔族の老人が人間の旅人に酒場で話しかける。
「……聖女のことは、聞いているか」
レオンハルトが低く聞いた。ジョッキを置く手が、わずかに震えていた。
「ああ。聖女様がカイン様のもとにおられるとか。教会は洗脳だと言っているようだが——」
老人がふっと笑った。
「洗脳ねえ。カイン様にそんな器用な真似ができるとは思えんがな。あの方は——不器用だからなあ」
レオンハルトは——何も言えなかった。ジョッキの中の麦酒が、暖炉の光を受けて金色に揺れていた。
*
魔王城では——カインが書斎で地図を広げていた。
聖騎士団長の気配は、すでに把握している。ハーゲンの町にいる。一人で。戦う気配はない。観察している。
「泳がせておけ」
リュカが横で首を傾げた。
「いいんすか? 敵の指揮官っすよ?」
「一人で来た。武装も最低限。戦いに来たんじゃない——確かめに来た」
カインの声にはどこか——温度があった。冷徹な分析の声ではなく、もう少し柔らかい何か。
「自分の目で見て、自分で判断する奴は——嫌いじゃない」
リュカが「ふーん」と生返事をしたが、その目は鋭くカインを観察していた。五十年仕えてきた従者は、主人の微妙な変化を見逃さない。
広間に行くと、リーリエが窓辺で本を読んでいた。銀灰色の髪が窓から差す光を反射し、淡い紫に見えた。カインが近づくと、顔を上げた。
「客が来ているかもしれん」
「客……? 教会の人ですか?」
「聖騎士団長だ。一人で魔王領に入ってきた」
リーリエの目が見開かれた。
「それは——敵では?」
「……まだ、わからん」
カインが窓の外を見つめた。南の方角。ハーゲンの町がある方向。冬の灰色の空が、遠くまで広がっている。
「敵かもしれん。味方になるかもしれん。あいつ次第だ」
「カインさんは——信じているんですか?」
「信じてはいない。だが——あいつのことは気にするな。お前は俺のそばにいればいい」
過保護な一言。
リーリエが小さく首を振った。
「いつもそう言いますね。『そばにいろ』って」
「言わないと、お前はすぐどこかに行くからだ」
「どこにも行きませんよ」
リーリエの声は穏やかだった。静かで、揺るぎがなかった。以前の「どうでもいい」ではなく——自分の意志として「ここにいる」と言っている声だった。
カインがちらりとリーリエを見た。その表情の意味を測るように。深紅の目が一瞬だけ揺れて——何も言わず、書斎に戻っていった。
聖騎士団長は魔王領で「真実」の一端を見た。暴政のない統治。人間と魔族の共存。教会が語る「魔王の恐怖」が虚構であること。
しかし彼が本当に知るべき真実は——まだ、この先にある。
ハーゲンの町では、レオンハルトが酒場を出て宿を探していた。宿の女将は人間で、レオンハルトに温かいスープと固いパンを出した。「旅の人なら、ゆっくり休みなさい」と。敵地であるはずの土地で、見知らぬ旅人に温かい食事を出す女将の顔に——敵意は一片もなかった。
レオンハルトは宿の窓から、夜の町を見下ろした。通りには灯りが点々と連なり、魔族の子供が人間の子供の手を引いて走っている。笑い声が、冬の夜に小さな温もりを作っていた。
琥珀色の目に——迷いの色が深くなった。
教会の正義と、目の前の現実。その狭間で——レオンハルト・クレーフェは、まだ答えを出せずにいた。




