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魔王は死にたがりの聖女を拾い、今日も溺愛で生かしにかかる  作者: 蒼月よる


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孤立する城

 食糧庫の棚が、少しずつ空いていた。


 ヴェルナーが記録帳を開き、淡々と報告する。銀縁の眼鏡の奥で、灰色の目が数字を追っていた。細い指がページを繰るたびに、乾いた紙の音が広間に響く。


「南の交易路が封鎖されました。東の街道も、教会の検問が設置されています。現時点で魔王城に物資を搬入できる経路は——北の山道のみ。ただし冬季は積雪で通行困難です」


 広間に、重い沈黙が落ちた。


「備蓄で持つのは——およそ一月。節約すれば、もう少し延ばせますが」


 ヴェルナーの声は冷静だった。感情を排した、事実だけの報告。けれどその冷静さが、かえって事態の深刻さを浮き彫りにしていた。数字が描く未来は明瞭だった。一月。それが、この城に残された猶予だ。


 カインが腕を組んだまま、静かに頷いた。


「一月あれば十分だ。それまでに決着がつく」


「決着——とは?」


「教会軍が来る。来たら、叩く。それで終わりだ」


 カインの声は平坦だった。五百年の戦場を生き延びた者の自信が、そこにあった。


 けれどリーリエは——別のことを考えていた。


    *


 昼食の時間になった。


 リーリエの前に、いつも通りの食事が並んだ。パン、スープ、焼いた肉、果物。質も量も変わらない。マリカが「今日のスープは少し濃いめにしましたよ」と笑顔で言った。暖炉の火が食堂を温め、スープの湯気が橙色の光の中で柔らかく揺れていた。


 けれど——従者たちのテーブルを見たとき、リーリエの手が止まった。


 パンの枚数が減っていた。肉がない。スープの量が少ない。


 リーリエの食事は変わっていないのに——従者たちの食事は、明らかに質素になっていた。リュカが何事もないように薄いスープを啜り、フィルが小さなパンを大事そうにちぎって食べている。


「……マリカさん」


「はい、リーリエ様」


「私の分を減らしてください。皆さんと同じにしてください」


 マリカが目を丸くした。そしてすぐに——穏やかに笑った。


「とんでもないです。リーリエ様のお食事は減らせません。カイン様からもそう言われておりますし、私たちも——そうしたいのです」


「でも——」


「リーリエ様」


 フィルが横から口を挟んだ。小さな魔族の少女が、大きな目でリーリエを見上げている。パンくずが唇の端についていた。


「リーリエ様がたくさん食べてくれると、マリカが嬉しいんです。マリカが嬉しいと、フィルも嬉しいです」


 その真っ直ぐな言葉に——リーリエは言葉を失った。


 自分のために他者が食事を減らしている。自分のために他者が犠牲を払っている。


 それは——聖女制度の縮小版ではないのか。


 けれど——違う。


 教会では、リーリエの犠牲は「制度」だった。仕組みとして組み込まれた、逃れられない構造。リーリエに選択の余地はなく、教会に感謝も愛情もなかった。そこにあるのは義務と機能だけだった。


 ここでは——従者たちが自分の意志で選んでいる。リーリエのために食事を減らすことを、誰にも強制されずに。そこにあるのは——温かい、個人の想い。


 その違いを——リーリエはまだ、うまく言語化できなかった。けれど胸の奥で、「違う」という直感だけは——確かにあった。


    *


 午後、リーリエはこっそり厨房に向かった。


 厨房は城の一階にあった。石造りのかまどが二つ、大きな調理台、棚に並ぶ鍋と皿。マリカの領域だ。かまどの余熱がまだ残っていて、厨房の空気だけがわずかに温かかった。小麦粉と乾燥した香辛料の匂いが鼻をくすぐる。


 リーリエは棚を見回した。小麦粉がある。卵がある。塩がある。


 何かを——作りたかった。


 食べるだけではなく。受け取るだけではなく。自分の手で、何かを。


 リーリエは腕をまくり、小麦粉をボウルに入れた。教会で暮らしていた頃、厨房の修道女が焼いていたパンの作り方を、遠くから見ていたことがある。生地をこねて、発酵させて、焼く。手順は覚えている。実際にやったことはないけれど。


 小麦粉に水を加えた。生地が——べたべたと手に貼りついた。


「あ……」


 分量を間違えた。水が多すぎた。リーリエは慌ててもう少し小麦粉を足したが、今度は粉っぽくなった。指の間に生地が入り込み、爪の間に白い粉が詰まる。こねるたびに手首が痛んだ。力が足りない。聖女の身体は華奢で、生地をこねる力すら——満足にない。


「お嬢、何してんすか!」


 リュカが飛び込んできた。厨房の入口で、琥珀色の目を丸くしている。


「パンを——焼こうと思って」


「パン!? お嬢が!?」


 リュカが慌ててリーリエのそばに来た。ボウルの中の生地を見て——額を押さえた。


「これは——うーん、ちょっと」


「駄目ですか」


「駄目っていうか——あの、お嬢、パン焼いたことあります?」


「ありません」


「ですよね」


 リュカが笑いながら、腕をまくった。「じゃあ俺が手伝いますよ」と生地を整え始める。手際がいい。五十年の従者歴は伊達ではなかった。べたついた生地が、リュカの手の下であっという間に滑らかになっていく。


 そこにマリカが来て「リーリエ様! 厨房は危ないですよ!」と慌て、フィルが来て「リーリエ様がパン焼くの!? 見たい!」とはしゃいだ。狭い厨房が一気に賑やかになった。


 騒ぎの最中に——カインが現れた。


 厨房の入口に立ち、腕を組んで、無言でその光景を見ていた。


「カイン様、リーリエ様が厨房で——」


「好きにさせてやれ」


 カインの一言で、マリカが口を閉じた。


 カインの深紅の目が、リーリエを見ていた。小麦粉で白くなった手で不器用に生地をこねるリーリエを。銀灰色の髪にも粉がついている。頬にも。


「……何を作っている」


「パンです。多分」


「多分か」


「初めてなので」


 カインの口元が——わずかに緩んだ。笑みとは言えない。けれど——無表情の氷が、ほんの少しだけ溶けた瞬間だった。


 結局、リュカとマリカの助けを借りて、リーリエはなんとかパンを焼き上げた。形はいびつで、焼き色はまだらで、お世辞にも美味しそうとは言えなかった。かまどから取り出した瞬間、小麦の香ばしい匂いだけは——本物のパンと同じだった。


 カインはそれを黙って一切れ取り、口に運んだ。咀嚼し、飲み込む。


「……悪くない」


 一言だけ。


 リーリエの胸が——少しだけ、温かくなった。


 交易路は閉ざされ、物資は減り、世界は遠ざかる。それでも魔王城の食卓には——不格好なパンと、笑顔があった。


 いつまで、それが続くのだろう。


 リーリエは、まだ答えを持っていなかった。けれど——いびつなパンを頬張るカインの横顔が、今日の一番温かい記憶として、胸の奥に残った。


 夜、ベッドの中で手を見た。爪の間にまだ小麦粉の跡が残っていた。こねた生地の感触が、指先に微かに残っている。何かを作ること。自分の手で。そのささやかな行為が——こんなにも心を軽くすることを、リーリエは知らなかった。


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