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魔王は死にたがりの聖女を拾い、今日も溺愛で生かしにかかる  作者: 蒼月よる


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剣の記憶

 朝の訓練場に、剣の音が響いていた。


 魔王城の中庭に設けられた訓練場。石畳の広い空間に、魔族の戦士たちが集まっている。教会軍との戦いに備え、カインが直接指導を行っていた。冬の朝の冷気が白い息となって戦士たちの口から吐き出され、剣を振るう腕からは湯気が立ち上っている。


 リーリエは訓練場の端、石段に腰かけて見学していた。カインが「見ていてもいいが、近づくな」と言ったから。膝の上にマリカが持たせてくれた毛布を広げ、両手を包んでいる。吐く息が白い。


 魔族の戦士たちが聖騎士団の戦い方について質問する。聖騎士の甲冑の弱点はどこか。聖術による身体強化にどう対処するか。集団突撃をどう崩すか。


 カインが答える代わりに——実演した。


「聖騎士団の基本陣形は三列構成。前衛が盾を構え、中衛が剣で切り込み、後衛が聖術で支援する。突破するには——中衛を潰す」


 カインが剣を抜いた。


 黒い刃が冬の陽光を反射する。カインが構えを取った——その瞬間、リーリエの目が見開かれた。


 カインの構えは、魔王のものではなかった。


 右足を半歩引き、剣を斜めに構え、左手を前方に添える。重心は低く、腰が据わっている。それは——教会の聖騎士が取る、正統な剣の構えだった。教会で護衛の騎士たちが朝の鍛錬をしていた光景が蘇る。あの構えだ。あの、銀の甲冑を纏った騎士たちが取っていた、あの構え。


「中衛は剣を振り下ろす。こう来る」


 カインが剣を振った。流麗な弧を描く斬撃。力任せではない。滑らかで、精緻で、美しい——無駄のない動き。刃が空気を裂く音すら、澄んで聞こえた。


「これを受け流すには——ここだ」


 カインが打ち込みの角度を変え、受け流しの型を見せた。その動きもまた——正確だった。刃の角度、体重の移動、足の運び。すべてが一つの体系に基づいていた。


 リーリエは息を呑んだ。


 教会で暮らしていた頃、聖騎士団の訓練を何度か見たことがある。護衛として付き添う騎士たちの剣技を、離れた場所から眺めていた。あの流麗な剣——聖騎士団の剣技だ。


 カインが見せているのは——まさに、あの剣だった。


 しかもカインの技は、教会で見た聖騎士たちのものよりも洗練されていた。同じ型でありながら、より深く、より精密で、より——本質的だった。まるで、この型を作った人間が使っているかのように。型に合わせて身体を動かしているのではなく——身体の動きそのものが型になっている。


    *


 訓練の休憩時間。


 戦士たちが水を飲み、汗を拭っている。冬の冷気で湯気が立つ肌を、粗い布で拭う音が訓練場に響いていた。カインが剣を鞘に収め、タオルで首筋を拭いた。


 リーリエが訓練場の端から立ち上がり、カインのそばに歩み寄った。毛布を小脇に抱え、石畳を渡る。


「カインさん」


「何だ」


「今の剣技——聖騎士団の技では?」


 カインの手が止まった。タオルを握ったまま、一瞬——動きが凍った。


「なぜ魔王が、聖騎士団の剣技を——それも、あんなに正確に使えるんですか」


 カインの目が——遠くなった。


 深紅の瞳の焦点がずれ、リーリエを通り越して、どこか遠い場所を見ている。五百年の彼方にある何かを。訓練場の喧噪が遠ざかり、カインの周囲だけが——時間を止めたように静まった。


「……昔の話だ」


 声が低かった。いつものぶっきらぼうさとは違う。抑えた声。感情を押し込めた声。


「敵を知れば戦いやすい。それだけだ」


「昨日も——『昔の話』と言っていましたね」


 リーリエの声は穏やかだったが、引く気配はなかった。薄い青紫の瞳が、まっすぐにカインを見ている。


 カインが目を閉じた。深い呼吸を一つ。胸が大きく上下した。そして——顔を背けた。


「知っていて損はない」


 それだけ言って、訓練場に戻っていった。


 リーリエは立ち尽くした。カインの背中を見つめながら、考えていた。


 「昔の話」。「少し関わった」。「知っていて損はない」。


 すべてが——はぐらかしだ。けれどカインの声には、嘘を吐いている人間の響きはなかった。隠している。意図的に。そしてそれは——痛みを伴う行為なのだ。何かを隠すたびに、あの遠い目をする。五百年の重みが瞳の奥に沈殿するような、あの目を。


 あの目。あの遠い目。何百年も前の何かを見ているような——。


    *


 夕方、リーリエの部屋にリュカが夕食を運んできた。


 皿を並べながら、リュカが何気なく言った。


「カイン様の剣、不思議っすよね」


「え?」


「魔王なのに、聖なる剣技を使われるんすから。俺も最初は驚いたっすよ。五十年仕えてても——あの方の過去は謎だらけです」


 リュカの口調は軽かったが、目は笑っていなかった。五十年という時間の重みが、その言葉の裏に横たわっていた。琥珀色の瞳が一瞬だけ影を帯び——すぐに、いつもの軽薄な笑みに戻った。


「まあ、旦那様がいつか自分で話すでしょ。あの方は——約束は守る人っすから」


 リーリエはスープに口をつけながら、ふと思い出した。


 レオンハルト。


 聖騎士団長が、以前語った言葉。


「初代聖騎士の伝承を、覚えていますか」


 リュカが首を傾げた。


「初代聖騎士——聖女を守った伝説の騎士。その人が使ったとされる剣技が聖騎士団に受け継がれている、と——レオンハルト団長が言っていました」


 初代聖騎士の剣技。


 五百年前の伝説の剣。


 そしてカインが使った、聖騎士団の剣技の——原型。


 点と点が、リーリエの頭の中で並んだ。


 繋がりかけている。けれどまだ——一本の線にはならない。あまりにも大きな答えが、その線の先に待っている気がして——リーリエはそこで思考を止めた。


「カインさんは——一体、何者なんだろう」


 リーリエは呟いた。スープの湯気が、窓辺の冷たい空気に溶けていった。


 その答えは——まだ見つからない。けれど見つけたいと思う。カインが隠している過去の正体を。あの遠い目の理由を。あの、流麗な聖なる剣の意味を。


 訓練場で——カインがリーリエに「近づくな、怪我をする」と言っていた声を思い出す。心配性の声。過保護な声。


 魔王の剣が、聖騎士の剣だった。その矛盾の答えを——リーリエは、まだ見つけられない。


 窓の外で、冬の最後の光が消えていく。紫がかった空の向こうに、星が一つ、二つと灯り始めた。リーリエはスープの残りを飲み干し、皿をリュカに返した。


「ごちそうさまでした」


「はいはい。——お嬢、あんまり悩みすぎないでくださいね。いつか全部わかりますから」


 リュカの声は軽かったが——その中に、確信が混じっていた。「いつか」が来ることを、この従者は知っている。五十年という歳月が、その確信を裏打ちしている。


 リーリエは部屋の灯りを落とし、ベッドに入った。目を閉じると——訓練場で見たカインの剣が、瞼の裏に焼きついていた。流麗な弧。聖なる剣の原型。あの剣を振るうカインの姿には——魔王の凶暴さはなかった。あったのは——誰かを守るための、研ぎ澄まされた意志だけだった。


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