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魔王は死にたがりの聖女を拾い、今日も溺愛で生かしにかかる  作者: 蒼月よる


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教会を知る男

 戦略会議に出たのは——初めてだった。


 魔王城の地下、石壁に囲まれた広い部屋。大きなテーブルの上に地図が広げられ、魔族の将たちが立ち並んでいる。角を持つ者、鱗を持つ者、翼を畳んだ者——いずれも歴戦の気配を纏っていた。壁の燭台に灯された蝋燭が橙色の光を落とし、石壁に将たちの影を大きく映し出している。


 リーリエはその部屋の隅に、小さな椅子を与えられていた。カインが「見ていろ」と言ったのだ。普段なら「散歩でもしてこい」と追い返されるところだが——今日は、同席を許された。


 理由は聞いていない。けれどリーリエは——自分から「出たい」と言ったのだ。昨日、カインに「何かしたい」と告げたとき、カインは何も言わなかった。けれど今朝——「来い」と一言だけ言った。


 短い一言。けれどそこに——リーリエの意志を受け止めた返答があった。


 カインがテーブルの前に立った。


「教会軍の先遣部隊は現在、南西の峠に駐留。本隊はまだ教会直轄地を出ていない。到着まで——早くて十日。遅ければ二十日」


 深紅の目が地図をなぞる。指先が、教会軍の進軍路を示していく。大きな手が地図の上を滑るたび、示される場所の地形や戦略的意味が言葉なく伝わってくる。


「南の街道から来る場合、補給線はこの三箇所。ここ、ここ、ここ。いずれも教会の修道院が兵站拠点を兼ねている。修道院の構造は——外壁は石灰岩の二重構造、内部に井戸と食糧庫を備え、地下に通信用の聖術回路がある」


 リーリエは——驚いていた。


 教会の軍事力に対抗するために敵を研究した——という程度の知識ではなかった。修道院の構造。井戸の位置。地下の聖術回路。それは「外から調べた」レベルの情報ではない。


 内部にいた者の知識だ。


 リーリエは教会で暮らしていた二年間を思い返した。修道院の構造など、聖女であっても詳しくは知らなかった。祭壇と居室と、護衛に連れられて歩く回廊——それだけがリーリエの知る教会だった。カインが今語っている情報は、建築や運営の内部に深く関わった者でなければ持ち得ない。


「聖騎士団の指揮系統は大司教直轄。団長が現場の最高指揮権を持つが、大司教の使者が戦場に入れば指揮権は使者に移る。これは——教会法第三十七条に基づく」


 教会法の条文番号まで。


 魔族の将たちは淡々と聞いていた。彼らにとって、カインが教会に詳しいことは今更だ。数百年仕えてきた者たちにとって、主人の知識の深さは周知の事実なのだろう。


 けれどリーリエにとっては——初めて目の当たりにする光景だった。


「補給線を断つ必要はない。断てば戦闘が長期化し、民間への被害が拡大する。教会軍は——士気で動く軍だ。士気を折れば、補給が万全でも瓦解する」


 カインの声は冷静で、的確で、そして——どこか寂しかった。


 教会の弱点を知り尽くしている。組織の構造を、内側から理解している。それが数百年の研究の成果だとしても——この知識の深さは、もっと根源的な何かを示しているように、リーリエには思えた。知識ではなく——記憶だ。学んだのではなく——知っているのだ。身体に染みついた理解。


    *


 会議が終わった。


 将たちが退出していく中、リーリエはカインの後を追った。廊下に出たカインの背中に、声をかけた。


「カインさん」


 カインが立ち止まった。振り返りはしない。石壁の廊下に、二人分の足音だけが残っていた。


「……なぜそこまで教会のことを知っているんですか」


 静かな声で問うた。


 カインの肩が——わずかに強張った。ほんの一瞬。見逃すほどの微かな動き。けれどリーリエの観察力は——凍結した感情の下で研ぎ澄まされていた。


「昔、少し関わった」


「少し、ですか?」


 リーリエは引き下がらなかった。


「修道院の構造。聖騎士団の指揮系統。教会法の条文。それは——『少し関わった』で知れることではないと思います」


 カインがようやく振り返った。深紅の目がリーリエを見つめた。そこには——複雑な色があった。怒りではない。驚きでもない。もっと深い——覚悟を迷っているような、そんな光。


「……いつか話す」


 低い声だった。


「今は——まだ」


 そう言って、カインは歩き去った。黒い外套の裾が廊下の暗がりに消えていく。蝋燭の炎が風に揺れ、カインの影が一瞬だけ壁に大きく伸び——そして消えた。


 リーリエは立ち尽くした。


 「いつか話す」。


 それは——拒絶ではなかった。「話すつもりがある」という約束だった。ただ、今はまだ——その時ではないと。


 何百年もの間、一人で抱えてきたものがあるのだ。それを簡単に明かせないことは——リーリエにもわかった。教会で過ごした二年間ですら、リーリエは自分の苦しみを誰にも話せなかった。「聖女の試練です」と微笑まれるだけだとわかっていたから。話しても理解されない痛みを抱えている者の気持ちは——リーリエには、わかるつもりだった。


    *


 夜、リーリエの部屋にマリカが紅茶を運んできた。


 湯気の立つカップを受け取りながら、リーリエはふと聞いた。


「マリカさん。カインさんは——昔のことを、あまり話されないんですか」


 マリカの手が一瞬止まった。そして——穏やかに微笑んだ。


「カイン様は……多くを語られない方です。何百年も生きてこられて、多くのものをご覧になったはずですが——ほとんど、お話しになりません」


「何百年も、ずっと……一人で?」


 マリカが少し考えてから、静かに答えた。


「……はい。リュカが来るまでは——長い間、お一人でした」


 リーリエは紅茶のカップを両手で包んだ。温かい。紅茶の香りが湯気と共に立ち上り、冬の冷たい空気の中に小さな温もりの領域を作っていた。


 何百年も。一人で。


 教会のことを知り尽くしている。聖騎士団の内部構造を知っている。けれどそれを誰にも語らず——一人で、この城で、ずっと。


 胸の奥で何かが痛んだ。


 それは同情とは少し違った。自分が教会で過ごした二年間——あの孤独な日々を、何百年に引き伸ばしたら。想像するだけで、息が詰まりそうになる。二年ですら耐えられなかった孤独を、この人は何百年も。


 リーリエは紅茶を一口飲んだ。温かさが喉を通り、胸に落ちていく。


 「昔、少し関わった」——その「少し」が、数百年の重みを持っていることを、リーリエはまだ知らない。


 けれど知りたいと——思った。


 今日の会議で、カインが無意識にリーリエの椅子を自分のすぐ隣に引き寄せていたことに、リーリエは気づいていた。会議の途中で何度か、カインの視線がリーリエを確認するように動いたことも。将たちに厳しい指示を飛ばしながら——リーリエのそばだけには、柔らかい空気を残していた。


 あの人は——いつも、こっそりと。


 リーリエの頬が、紅茶の湯気のせいではなく——微かに熱くなった。


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