騎士の疑問
聖騎士団の陣営は、魔王領の南西——教会直轄地との境界に設営されていた。
白い天幕が整然と並び、聖騎士団の旗が冬の風にはためいている。銀の甲冑を纏った騎士たちが巡回し、馬が嘶き、武器を研ぐ音が絶え間なく響いていた。篝火が夜通し焚かれ、煙が冬の空に細い柱となって立ち昇っている。
その陣営の一角で——聖騎士団長レオンハルト・クレーフェは、天幕の中に一人、座っていた。
テーブルの上に広げた地図を見つめている。魔王領の地形図。教会が作成したもので、魔王城の位置、周辺の集落、推定される防衛線がすべて記されていた。地図の端には大司教の署名が入った作戦指示書が添えられている。「聖女救出」の四文字が、太い筆致で記されていた。
だが——レオンハルトが見つめていたのは、地図ではなかった。
記憶だった。
以前、リーリエの引き渡し交渉のために魔王城を訪れたときの記憶。あのとき見たリーリエの姿。黒い服を着た銀灰色の髪の少女。目が笑っていない穏やかな笑み。けれどあのとき——あの少女は、洗脳されているようには見えなかった。
むしろ——初めて、安らいでいるように見えた。
教会で護衛任務についていたとき、リーリエの目は虚ろだった。生気がなかった。光がなかった。白い聖衣を纏い、祭壇の前に立つ少女の目は——まるで硝子玉のようだった。声を発することもほとんどなく、ただ——そこに在るだけだった。あの目を見て——レオンハルトは胸が痛んだことを覚えている。
魔王城で見たリーリエの目には——かすかな光があった。虚ろさの奥に、何かが灯り始めているような——微かな、けれど確かな変化。
それが洗脳の結果だと?
「……本当に、そうなのか」
レオンハルトが呟いた。低い声。自分自身に問いかける声。
テーブルの上の蝋燭が揺れた。風が天幕の隙間から入り込んでいる。外は冬の夜だ。見張りの騎士が交代する声と、甲冑の金属音が遠くに聞こえる。
大司教の命令は明確だ。聖女を魔王から救出する。そのための軍を率いている。命令に従うのが騎士の務めだ。
だが——正義とは何だ。
聖女を守ることが聖騎士の誓い。それはレオンハルトが幼い頃から胸に刻んできた言葉だ。初代聖騎士の伝承を読み、その志に憧れ、騎士団に入った。聖女を守ること。それだけが——レオンハルトの全てだった。
けれど「聖女を守る」とは何を意味するのか。教会に連れ戻すことが「守る」なのか。あの虚ろな目に戻すことが「守る」なのか。
レオンハルトは立ち上がった。甲冑の胸当てを外し、軽装に着替えた。腰に剣だけを帯びる。
「副官」
天幕の外に呼びかけた。
「少し、偵察に出る。一人で行く」
「団長殿、一人では——」
「命令だ」
短く言い切った。副官は口を閉じ、敬礼した。
レオンハルトは馬に跨り、単騎で陣営を後にした。振り返らなかった。天幕の灯りが背後で小さくなっていく。
*
魔王領の境界を越えた。
冬の森が続いていた。枯れ木が灰色の枝を空に伸ばし、落ち葉が足元で乾いた音を立てた。馬の蹄が凍った地面を踏むたび、硬い音が静寂に響く。道は細く、人の気配は薄い。月明かりが木々の隙間から差し込み、銀色の斑点を地面に落としていた。
敵地だ。
聖騎士団長がたった一人で魔王領に踏み込む——常識で言えば無謀だ。捕まれば人質にされるか、殺される。少なくとも、教会はそう教えている。
だがレオンハルトの足は止まらなかった。
確かめなければならない。自分の目で。自分の耳で。教会の言葉ではなく——現実を。
それが騎士だ。
少なくとも——レオンハルトは、そう信じていた。
森を抜けると、小さな集落が見えた。魔族の集落。丸太造りの家が数軒、畑と牧場が広がっている。冬だが——煙突から煙が上がり、生活の匂いがしていた。焼いた肉と、暖炉の薪の香り。懐かしいとすら感じる、人の営みの匂い。
レオンハルトは外套のフードを深く被り、集落の様子を遠くから観察した。
子供たちが走り回っていた。人間の子供と——角の生えた魔族の子供が一緒に。笑い声が冬の空気に溶けていく。母親が洗濯物を干しながら、子供たちに声をかけている。魔族の男が薪を割り、人間の老人がそれを受け取って竈にくべている。
恐怖はなかった。
支配もなかった。
レオンハルトが知る「魔王の領地」の姿は——ここにはなかった。教会が語る恐怖と暴政の代わりに、穏やかな日常があった。
琥珀色の目が——揺れた。
*
同じ頃——魔王城の書斎で、カインが目を細めていた。
「来たか」
低い声で呟いた。テーブルの上に広げた地図から顔を上げ、南の方角を見つめている。
気配を読んだのだ。カインの感知能力は常人の域を遥かに超えている。魔王領に侵入した者の気配——それも、尋常ではない力を持つ者の気配を。
「聖騎士団長か。……一人で来たか」
その声には——かすかな感嘆が混じっていた。
命令に従って軍勢を率いるのではなく、単身で真実を確かめに来る。組織の論理ではなく、自分の目を信じる。
——似ている。
カインの深紅の目が、わずかに揺れた。遠い記憶の中の誰かと重なる。五百年前——教会の言葉を鵜呑みにせず、自分の目で聖女の苦しみを見た、若い騎士。
自分だ。
かつての自分と同じことをしている。
カインは視線を落とし、地図に戻った。口元に苦い笑みが浮かんでいた。
広間に出ると、リーリエが本を読んでいた。銀灰色の髪が肩から流れ、薄い青紫の瞳が文字を追っている。カインが近づくと、顔を上げた。
「客が来るかもしれん」
「客、ですか?」
リーリエが首を傾げた。
「危なくなったら俺の後ろに隠れろ」
「……いつもそう言いますね」
「いつも言ってるのに隠れたことがないからだ」
リーリエが微かに唇の端を上げた。笑顔とは呼べない。けれど——力が抜けた表情だった。
カインはそれ以上何も言わず、窓の外を見つめた。
聖騎士団長は魔王領に踏み込んだ。「真実」を求めて。
だが真実は——この男の信念を、根底から揺るがすものだった。それを知ったとき、聖騎士団長はどうするのか。
カインには——わからなかった。五百年前の自分は、すべてを失った。同じ道を辿るとは限らない。
だが——一人で来た。
カインは椅子の背にもたれ、天井を見上げた。古い石の天井に、蝋燭の光が揺れている。五百年前の記憶が、不意に鮮明になる。教会の回廊を歩いていた頃の自分。正義を信じていた頃の自分。聖女の苦痛を目の当たりにして、初めて教会に疑問を抱いた日。あの日から——全てが変わった。
聖騎士団長が同じ道を歩くかどうかは——わからない。しかし道の入口に立ったことだけは確かだ。
それだけで——嫌いじゃない。




