密使の影
結界に穴が開いた。
それは魔王領の東、辺境の村エルトの近くだった。冬の朝、村人が井戸に水を汲みに行った時——空に、裂け目が見えた。薄紫色の光がにじみ、そこから黒い霧のようなものが吹き出していた。霧は低く垂れ込め、朝靄と混じり合い、どこまでが霧でどこからが災厄なのか、見分けがつかなかった。
災厄だった。
小型の異界生物——灰色の体毛に覆われた、犬ほどの大きさの獣が三体、裂け目から這い出してきた。目は赤く、口から灰色の霧を吐いた。霧に触れた木々が枯れ、地面が黒く焦げた。枯れ葉が音もなく崩れ、土が炭のように変色していく。生命を蝕む瘴気だった。
村人たちは逃げた。しかし足の遅い老人と幼い子供が逃げ遅れた。獣が一体、子供に向かって跳びかかろうとしたとき——
村の自警団が矢を放った。獣は倒れたが、残り二体が自警団を襲い、三人が負傷した。
その報告が魔王城に届いたのは、昼過ぎだった。
*
広間の空気が凍りついた。
報告を持ってきたのは、東方の偵察を担当する魔族の兵士だった。額に傷を負い、息を切らしながら跪いた。鎧の胸当てに黒い焦げ跡がある。瘴気に触れたのだろう。
「エルトの村で結界の穴が確認されました。災厄が三体侵入。自警団が一体を討伐しましたが、二体が逃走。村人に負傷者が出ています。——死者は、今のところいません」
リーリエの顔から血の気が引いた。
負傷者。結界の穴。災厄。
自分が——炉にいないから。
左胸の聖女の紋章が、微かに疼いた。結界の綻びを感知する力が、身体の奥から警鐘を鳴らしていた。世界の膜が——薄くなっている。それをリーリエは、骨の芯で感じていた。
「救援部隊を出す」
カインの声が広間に響いた。低く、鋭い。命令の声だった。
「リュカ、東方に精鋭を十騎。結界の穴の封鎖はヴェルナーに任せる。残り二体の災厄は——俺が行く」
「旦那様が直接?」
リュカが眉を上げた。
「三体程度なら俺が行くまでもないが——穴の大きさを確認したい。結界の劣化が進んでいるなら、今後の防衛計画を見直す必要がある」
カインの判断は迅速で的確だった。五百年の経験が、最適な行動を瞬時に導き出す。従者たちが動き出し、広間が慌ただしくなる。甲冑の金属音と、指示を伝え合う声が重なり合った。
その喧騒の中で——リーリエが口を開いた。
「……私が戻れば」
声は小さかった。けれどカインの耳には届いた。
深紅の目が、リーリエを射抜いた。
「その先は言うな」
「でも——私が教会に戻れば、結界は安定します。穴は開かなくなる。村人が怪我をすることもなくなる」
「そうだ。結界は安定する」
カインが一歩、リーリエに近づいた。長身の影がリーリエを覆う。けれどその影は——脅威ではなかった。
「お前が戻れば、結界は安定する。穴は塞がる。村人は安全になる。——そしてお前は、炉の燃料にされて死ぬ」
カインの声は冷たかった。けれどその冷たさは——リーリエに向けたものではなかった。世界の仕組みに対する、静かな怒りだった。
「結界が安定して、お前が死んで、世界は救われる。助かった連中は、自分たちの平和が少女一人の命の上に成り立っていることを知らないまま生き続ける」
カインの深紅の目が、まっすぐにリーリエを見つめた。
「——それが正しいと思うか」
リーリエは——答えられなかった。
正しいかと問われれば——正しくないと思う。思いたい。けれど村人が傷ついている現実がある。子供が泣いている現実がある。自分がここにいることで、誰かが血を流している。
その重さが——胸を押しつぶしそうだった。
指先が冷たくなっていた。冬の冷気のせいではない。罪悪感が、末端から体温を奪っていく。
「リーリエ」
カインが名前を呼んだ。珍しく——「お前」ではなく、名前で。
「お前が背負うものじゃない。結界の穴は俺たちが塞ぐ。災厄は俺が潰す。お前は——ここにいろ」
リーリエは唇を噛んだ。反論したかった。けれど言葉が出なかった。
カインが広間を出ていった。従者たちが後に続いた。リーリエは一人——広間に残された。
石の床が冷たかった。広い空間に、蝋燭の炎だけが揺れている。残されたリーリエの影が、壁に長く伸びていた。
*
夜になった。
カインは夕方には戻ってきていた。災厄の二体は討伐され、結界の穴はヴェルナーの術式で一時的に封鎖された。エルトの村には物資が届けられ、負傷者は手当てを受けた。
すべてが——カインの手で片づけられた。リーリエは何もしていない。
眠れなかった。
ベッドの中で天井を見つめていた。目を閉じると、村人が傷ついた報告が耳に蘇る。子供の泣き声が聞こえる気がした。聞いてもいないのに——想像が、胸を締めつけた。
左胸の紋章が、鈍い熱を帯びている。結界の綻びを感じ取る力が、夜の静寂の中でいっそう鋭くなっていた。世界のどこかで、薄くなった膜が——ゆっくりと裂けようとしている。
こんこん、と扉が鳴った。
静かなノック。リーリエがベッドから起き上がると、扉の向こうにカインが立っていた。
片手に、温かいミルクのカップを持っていた。
「……眠れないのか」
「はい」
「飲め」
カインがカップを差し出した。白い湯気が立ち上っている。蜂蜜の甘い匂いがした。暗い廊下に漂うその香りが、不思議と胸の重さを緩めた。
リーリエはカップを受け取った。両手で包むと、じんわりと温かさが伝わってきた。陶器の表面に指先が触れて、冷えていた手が少しずつ温まっていく。
カインは何も言わなかった。リーリエの部屋の入口に立ったまま、腕を組んで壁に背を預けていた。
リーリエがミルクを飲んだ。甘かった。温かかった。その温かさが、胸の奥まで沁みていった。
「……ありがとうございます」
小さな声で言った。
カインは「ああ」とだけ答えて、背を向けた。廊下に出て——立ち去ろうとして、ふと足を止めた。
「明日も穴が開くかもしれん。その度に俺が行く。何度でも行く。だから——」
背中越しに。
「お前は、安心して眠れ」
足音が遠ざかっていった。廊下の石畳を踏む音が、一歩ごとに小さくなっていく。やがて——静寂に溶けた。
リーリエはカップを両手で握ったまま、閉じた扉を見つめていた。目の奥が熱い。泣いてはいない。けれど——何かが、胸の中で揺れていた。
災厄は止められた。けれど次はどこに穴が開くのか。世界が少しずつ壊れていく中で——リーリエは、自分の存在の重さに押しつぶされそうになる。
それでも——カインが淹れたミルクは温かかった。毛布をかけ直す手はなかったけれど——その代わりに、「安心して眠れ」という言葉があった。
カップの底に、蜂蜜が少しだけ残っていた。最後の一口は——いちばん甘かった。
リーリエは目を閉じた。




