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魔王は死にたがりの聖女を拾い、今日も溺愛で生かしにかかる  作者: 蒼月よる


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洗脳の虚構

 嘘は——美しい衣をまとって世界を歩いた。


「聖女は魔王の魔法で洗脳されている」


 その言説は、教会の宣言からわずか数日で大陸全土に広がった。各国の教会支部が説法の中でそれを語り、街角の掲示板にそれを記し、酒場の噂話がそれを膨らませた。市場で買い物をする主婦が隣人に囁き、鍛冶屋の親方が弟子に教え、子供たちが路地裏で言い合った——「魔王がね、聖女様をさらったんだって」「洗脳されて、もう自分じゃないんだって」。


 洗脳。


 その一言が、すべてを説明してしまう。聖女が魔王のもとにいる理由を。聖女が帰ってこない理由を。聖女が「ここにいたい」と言った理由を。


 ——洗脳されているから。


 それで——終わりだ。


 リーリエの意志は、その一言で存在しないものにされた。リーリエという少女が何を考え、何を望み、何に苦しんでいるかは——もう誰にとっても問題ではない。「洗脳されている」の一言が、リーリエの全てを透明にした。


    *


 魔王城に届くのは、もはや外交文書ではなかった。


 カインの書斎に積まれた紙束は、すべて「聖女返還要求」だった。各国の王から、貴族会議から、辺境の領主から。文面は丁寧なものから恫喝に近いものまで様々だったが、結論は一つ——聖女を返せ。封蝋の色が赤いもの、金のもの、黒いものが混じり合い、テーブルの上に小さな紙の山を作っていた。


「四十二通」


 カインが無感情に言った。


「全部で四十二通の返還要求だ。うち三十一通が国家レベルの公式文書。残り十一通が貴族連名の請願書」


 深紅の目が紙束を見下ろしている。怒りでも悲しみでもなく——乾いた諦観に似た光が、そこにあった。五百年を生きた男の目だ。人間の愚かさを、もう何千回と見てきた目だ。


「洗脳なんて——されていません」


 リーリエが声を上げた。静かな声だった。けれど——芯があった。自分でも驚くほど、はっきりとした声だった。


「私は、自分の意志でここにいます。誰にも操られていません」


「知ってる」


 カインが短く答えた。


「だが、言ったところで信じる奴はいない。お前の意志を聞く気がある人間は、この城の外には——ほとんどいない」


 その言葉が——胸に刺さった。静かに。深く。


 自分の意志が存在しないものとして扱われる。声を上げても、それは「洗脳された者の言葉」として片づけられる。誰も聞かない。誰も信じない。四十二通の返還要求の中に、リーリエの名前は何度も出てくる。しかしリーリエの意志を問う文面は——一つもない。


 教会で聖女として暮らしていたときと——同じだった。


 あのときも、リーリエの意志は求められなかった。聖女に意志はない。聖女は世界を支える柱であり、柱に個人の感情はない。リーリエが何を思い、何を願い、何を望もうと——誰も聞かなかった。命を燃料にされる苦痛を訴えても、「それが聖女の試練です」と諭されるだけだった。


 そして今も。


 形を変えて、同じことが繰り返されている。


「……私の声は、どこにも届かないんですね」


 リーリエの声が掠れた。喉の奥が詰まるような感覚。泣いているわけではない。涙は出ない。ただ——声が細くなるのを止められなかった。


 カインが紙束から目を上げた。深紅の目がリーリエを見た。


「届かせる必要はない。お前がここにいる。それが答えだ」


 ぶっきらぼうな言葉。飾り気のない、短い言葉。けれどその奥に——「お前の意志を俺は知っている」という、静かな肯定があった。四十二通の返還要求が束ねる世論よりも、リーリエの小さな「ここにいたい」を尊重する——そういう、不器用な宣言だった。


 リーリエは少しだけ——唇の力を緩めた。


 カインが視線を書斎の窓に向けた。冬の曇り空が、鉛色の光を落としている。


「……五百年前にも、同じことがあった」


 低い声だった。独り言のような——けれど、リーリエに向けた言葉だった。


「正しいことを言っている人間の声が、大勢の嘘に塗り潰される。何度でも繰り返される。人間は——そういう生き物だ」


 その声には、諦めではなく——静かな怒りが滲んでいた。五百年分の。何度も繰り返し見てきた怒り。けれど折れなかった意志が、その声の芯にあった。


    *


 夜になった。


 リーリエは自分の部屋で窓の外を見つめていた。冬の星空が広がっている。五芒星座(フェアシュテルン)の五つの星が、雲間に微かに見えた。冷たい光が、窓ガラスに薄い白を落としている。


 辺境の村が被害を受けたという報告を、夕方に聞いた。結界が弱まり、穴が開いた場所から災厄が侵入した。死者はいなかったが、負傷者が出た。家が壊された。畑が荒らされた。冬の貯蔵庫が潰され、春までの食料の一部が失われた。


 教会はこの被害を「聖女不在の証拠」として大々的に喧伝しているという。


 私が戻れば——。


 その思考が、暗い水のように心に滲み出した。


 私が教会に戻れば、結界は安定する。辺境の村は守られる。被害は出ない。人々は安全に暮らせる。


 私が——炉に戻れば。


 胸の奥で、あの鈍痛の記憶が蘇った。結界を支えるために命を削られる感覚。全身を内側から灼かれるような、終わりのない痛み。あの頃の自分は——痛みに慣れることすらできず、ただ耐えていた。耐えているうちに、感情が凍っていった。


「リーリエ様」


 ノックの音と共に、マリカの声が聞こえた。


 暗い思考が——ぷつりと途切れた。


 マリカの声は温かかった。いつも通りの、穏やかな声。「夕食ですよ」というだけの、何の変哲もない言葉。けれどその声は、暗い水面に投じられた一石のように、リーリエの思考に波紋を広げて闇を散らした。


「……はい、今行きます」


 リーリエは窓辺から離れた。暗い思考を振り払うように、一歩を踏み出した。毛布を肩に引っかけ、部屋の灯りを見た。蝋燭の炎が小さく揺れている。温かい色だった。


 食堂には温かい光があった。マリカのスープの匂いがした。かぶとにんじんの甘い香り。フィルがリーリエの席の前に、小さな花を一輪置いてくれていた。白い野花。冬に咲く花などないはずだが、フィルはいつもどこかから見つけてくる。リュカが「お嬢、今日のパスタは俺の傑作っすよ」と胸を張っていた。


 世界は「聖女を返せ」と叫んでいる。四十二通の返還要求が紙の山を作っている。けれど——ここには、リーリエの名前を呼んでくれる人たちがいる。


 リーリエは席についた。スープを一口飲んだ。温かかった。舌の上にかぶの甘さが広がる。身体の内側が、じんわりと温められていく。冬の寒さが、一口ごとに遠ざかった。


「……おいしいです」


 その言葉に、マリカが微笑んだ。フィルが嬉しそうに笑った。リュカが「パスタもいけますって!」と身を乗り出した。


 私は——ここにいる。


 その言葉を、誰が聞いてくれるのだろう。世界のどこにも届かない声を——ここにいる人たちだけが、聞いてくれている。


 四十二通の紙よりも——この食卓の温もりの方が、リーリエにとっては重かった。


 食事を終えて部屋に戻る途中、廊下ですれ違ったカインが、何も言わずにリーリエの頭にぽんと手を置いた。一瞬だけ。手のひらの温もりが髪を通じて伝わり——すぐに離れた。カインはそのまま書斎に消えていった。振り返りもしない。


 リーリエは廊下に立ち尽くした。頭の上に、まだ温もりの余韻が残っている。


 何も言わなかった。けれどあの手のひらが言っていたのだ——「お前はここにいていい」と。


 世界の声は遠い。けれど——カインの手は近かった。


 蝋燭の灯りが廊下の壁に揺れる影を落としていた。リーリエはその光の中を歩き、自分の部屋に戻った。窓の外では、冬の風が枯れ木の枝を揺らす音が聞こえていた。遠い、遠い場所で——四十二通の紙束が、リーリエの居場所を奪おうとしている。


 けれど今夜は——眠れそうだった。


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