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魔王は死にたがりの聖女を拾い、今日も溺愛で生かしにかかる  作者: 蒼月よる


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魔王城の朝

 翌朝は——嘘みたいに穏やかだった。


 窓の外に冬の陽光が差し込み、石造りの廊下を白く照らしている。空は澄んでいた。雲一つない冬晴れだ。空気は冷たいが、窓ガラスを通した光は肌に触れると微かに温かい。昨夜の緊張が嘘のように、城は静寂に包まれていた。


 リーリエが食堂に入ると、いつもの光景があった。


 長いテーブルに朝食が並んでいる。焼きたてのパンの香ばしい匂いが鼻先をくすぐる。温かなスープの湯気が空気を柔らかく揺らし、蜂蜜をかけた果物が陶器の皿の上で艶やかに光っていた。マリカが盛り付けを整えている。フィルが花瓶に花を活けている——冬でもどこかから見つけてくる小さな野花だ。リュカが椅子の脚を直しながら「いい加減新しいの買いましょうよ」とぼやいている。


 そしてカインが——向かいの席で、不機嫌そうな顔をしていた。腕を組み、目を閉じ、食卓を前にして仏頂面を作っている。昨夜一睡もしていないであろう目の下の隈が、わずかに濃い。


 いつも通りだった。


「おはようございます」


 リーリエが席についた。マリカがすぐにスープをよそってくれる。温かい湯気が立ち上る。かぶのスープだ。白い液体の中に細かく刻まれた野菜が浮かんでいる。リーリエの前には——いつもと変わらない朝食が並んでいた。


 けれどリーリエは気づいていた。


 マリカの手が、わずかに震えていた。スプーンを皿に置くとき、陶器がかちりと小さな音を立てた。フィルの笑顔が、少しだけ硬かった。いつもなら目を細めて笑う子が、今日は唇だけで笑みを作っている。リュカの軽口の合間に——一瞬だけ、視線が窓の外に走った。南の方角を確かめるように。


 いつも通りの朝。けれど——いつも通りではないことを、全員が知っていた。


「カインさん」


「何だ」


「今日のスープは——何ですか」


「……知るか。マリカに聞け」


「マリカさん」


「かぶのスープですよ、リーリエ様。お好きだったでしょう?」


「ええ、好きです」


 普通の会話。何の変哲もない朝の会話。声が交わされるたびに、食堂の空気がほんの少しだけ緩む。けれどリーリエは思った——この光景が、いつまで続くのだろうと。


 教会が世界を動かした。軍が来る。戦いが始まる。この食卓が、この温かいスープが、この穏やかな朝が——いつまで続くかわからない。明日にはもう、この場所が戦場になっているかもしれない。


 リーリエはスプーンを口に運んだ。かぶの甘さが、胸の奥にしみた。舌の上でとろけるような柔らかさ。マリカが丁寧に煮込んだ味だ。


    *


 食後、リーリエは城内を歩いた。


 回廊の窓から見える魔王領の景色は穏やかだった。遠くに冬枯れの森が広がり、その向こうに山脈が白く輝いている。空は青い。鳥が飛んでいる。冷たい風が窓の隙間から吹き込み、リーリエの銀灰色の髪を揺らした。


 この風景を——リーリエは好きになっていた。


 教会の聖堂から見えたのは、整えられた庭園と石畳の街路だった。美しいけれど——窮屈だった。あらゆるものが人の手で管理され、雑草の一本すら許されない空間。ここから見える景色には、野性がある。自由がある。誰にも管理されていない、あるがままの自然。枯れ木すら、枯れたなりに堂々としている。


「リーリエ様」


 声をかけてきたのは、ヴェルナーだった。銀縁の眼鏡の奥で、落ち着いた目がリーリエを見ていた。白い髭を蓄えた顔は、いつもの通り冷静だったが、目尻にわずかな温かみがあった。


「大丈夫ですよ。カイン様がいらっしゃいますから」


 リーリエは少し驚いた。ヴェルナーは普段、感情を表に出さない。事務的で冷静で、必要なことだけを必要な分だけ話す人だ。そのヴェルナーが——わざわざリーリエを安心させるために声をかけてきた。


「……ありがとうございます、ヴェルナーさん」


「いえ。事実を申し上げたまでです」


 そう言ってヴェルナーは一礼し、去っていった。白い髭が回廊の薄暗がりに消えていく。その背中を見送りながら、リーリエは思った。


 カインに頼りきりでいいのだろうか。


 カインがいるから大丈夫。カインが守ってくれるから安心。従者たちも、自分も、その言葉に寄りかかっている。けれど——カインは一人だ。五百年をたった一人で生きてきた人だ。その重さを知っている。背負いすぎた肩が、時折かすかに震えることを知っている。


 その肩に——また、すべてを載せてしまうのか。


 漠然とした疑問が、胸の奥に引っかかった。小さな棘のように。抜こうとしても——指が届かない。


    *


 午後、リーリエはカインの書斎の前を通りかかった。


 扉が薄く開いていた。中から、紙をめくる音が聞こえる。インクの匂いが漂っている。リーリエはそっと覗き込んだ。


 カインが大きなテーブルに地図を広げていた。深紅の目が真剣な光を帯び、指先が地図の上をなぞっている。教会軍の進軍路、魔王領の防衛拠点、補給線。いくつもの印が書き込まれた地図は——戦いの地図だった。蝋燭の灯りが地図の上に揺れる影を落としている。


 カインの横顔は厳しかった。眉間に深い皺が刻まれ、口元は一文字に結ばれている。いつものぶっきらぼうな無表情とは違う——何かと戦っている顔だった。頬にかかった黒い前髪の向こうで、深紅の瞳が地図の一点を見つめている。


 リーリエの視線に気づいたのか、カインが顔を上げた。


 一瞬——ほんの一瞬、地図を隠すように手を動かした。大きな手のひらが、地図の上に書き込まれた赤い印を覆い隠す。


「覗き見は趣味が悪いぞ」


「すみません。通りかかっただけです」


「なら通り過ぎろ。散歩でもしてこい。リュカが庭の手入れをしている」


 ぶっきらぼうな声。けれどリーリエにはわかった——心配させまいとしているのだ。地図を隠したのは、戦いの現実をリーリエの目に触れさせたくなかったから。あの赤い印の一つ一つが、血の匂いを含んでいることを。


 リーリエは頷いて、扉から離れた。


 けれど——歩き出す前に、一瞬だけ見えた文字があった。


 地図の隅に書かれていた言葉。カインが隠しきれなかった、端の方に。


 ——聖騎士団。


 その三文字に、カインはなぜ、あんな表情をしていたのだろう。


 地図を見つめるカインの目は——敵を分析する目ではなかった。もっと深い——痛みに似た何かが、そこにあった。五百年の彼方を見透かすような、遠い、遠い目。


 リーリエは廊下を歩きながら、その表情を思い返していた。石の床を踏む足音が、静かな回廊に反響する。聖騎士団という言葉が、カインの中で何を呼び起こしているのか。


 わからない。けれど——知りたいと思った。その気持ちが、昨日よりも少しだけ強くなっていることに、リーリエ自身はまだ気づいていなかった。


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