救出の布告
大聖堂の天井は高かった。
白亜の柱が連なり、その頂きにはめ込まれたステンドグラスから、午後の光が七色に降り注いでいた。光は祭壇を照らし、信者たちの頭上に虹の紗をかけ、荘厳な空間を神聖さで満たしていた。香炉から立ち昇る白い煙が、光の帯を緩やかに揺らしている。甘い没薬の香りが石の床から天井まで満ちて、信者たちの呼吸と一つに溶けていく。数百人の人間が身じろぎ一つせず、ただ前を向いている。
その光の中心に——大司教グレゴリウス・ヴァン・オルデンが立っていた。
白金の法衣。胸に輝く大司教の紋章。灰色の髪を後ろに撫でつけた細長い顔には、慈愛の笑みが浮かんでいた。目だけが——笑っていなかった。灰色の瞳は信者たちの涙すらも計量するかのように、冷たく、静かに凪いでいる。
「親愛なる信徒の皆さま」
グレゴリウスの声は穏やかだった。大聖堂の広大な空間に響き渡るのに、叫ぶ必要はなかった。声そのものが力を持っていた。信者たちの背筋を正し、涙腺を緩ませ、心の奥底に届く——そういう声だった。三十年間、聖堂で説教を重ねてきた声は、石壁に当たって返るたびに深みを増し、聴く者の胸の奥にまで沁み渡っていく。
「聖女リーリエが、魔王の手に囚われて久しく。皆さまのお心が、いかに痛んでおられるか、私にもよくわかります」
信者たちが涙を拭った。子供を抱いた母親が祈りの姿勢を取った。老人が震える手を胸の前で組んだ。膝をつく者もいた。すすり泣きの音が、石壁に跳ね返って小さな波紋を広げていく。
リーリエの名を聞くだけで——人々は泣いた。
「聖女は、この世界を守る希望の灯火。その灯火が、闇に奪われた。結界は弱まり、辺境では災厄による被害が報告されています。これ以上、私たちは沈黙を守ることはできません」
グレゴリウスの声が、わずかに力を帯びた。法衣の袖から覗く細い指が、一度だけ祭壇の縁を撫でた。
「本日、私は宣言いたします。——教会は、聖女リーリエの救出に全力を注ぎます。各国の王侯貴族、騎士団、すべての信徒の皆さまに協力を仰ぎます。聖女を——この世界の光を、闇から取り戻しましょう」
大聖堂が歓声に包まれた。
信者たちは泣き、叫び、祈った。「聖女を救え」の声が渦を巻いた。石の壁が揺れるほどの音量。グレゴリウスは穏やかに微笑んだまま、その歓声を受け止めていた。両手を軽く広げ、信者たちの感情の奔流を全身で浴びるように。その仕草さえ、完璧に計算されていた。
——彼が語った言葉のどこにも、嘘はなかった。
結界は弱まっている。聖女は魔王のもとにいる。聖女がいなければ世界は危うい。すべて事実だ。
ただ一つ、語られなかった事実がある。
聖女を「取り戻す」とは——少女一人の命を炉にくべることだ。
その事実は——グレゴリウスの穏やかな笑みの奥に、静かに封印されていた。
*
魔王城に報せが届いたのは、その日の夕方だった。
リーリエは窓辺に立っていた。冬の空が橙色に染まっている。窓枠に置いた指先は冷たく、吐く息が微かに白い。窓ガラスの向こうに広がる魔王領の森が、夕陽を受けて黒い影絵のように浮かび上がっていた。昨日と同じ空。けれど——もう、同じではなかった。
「教会が動いた」
リュカが走り込んできた。息を切らしている。普段の軽さが消え、琥珀色の目に緊張が走っていた。尖った耳がぴんと立っている——半霊族の特徴が、感情の高ぶりを隠せずにいた。
「大司教が聖女救出を宣言したそうっす。各国に使者を送って、協力を要請している。全世界規模っすよ」
リーリエの手が、窓枠を握りしめた。指の関節が白く浮き上がるほど強く。
全世界。
その言葉の重さが、じわりと胸に沈んでいく。教会は本気だ。リーリエを取り戻すために、世界を動かすつもりだ。何百万もの人間が、一人の少女のために立ち上がろうとしている。けれどその善意の行き先は——炉だ。燃やされる命への片道切符だ。
「……私の、せいだ」
声が漏れた。消え入りそうな、細い声。窓ガラスに、リーリエの白い息が曇りを作った。
「私がここにいるから、世界が——」
「お前のせいじゃない」
足音もなく現れたカインが、低い声で遮った。黒い外套の裾が揺れている。深紅の目がリーリエを見据えていた。窓辺に差す夕陽の橙が、その深紅に溶けて金色の光を浮かび上がらせている。
「あいつらが勝手に言っているだけだ。お前が気にする必要はない」
素っ気ない言葉だった。けれどその声には——リーリエの自責を許さないという、静かな意志が滲んでいた。
リーリエは黙ってカインを見上げた。薄い青紫の瞳に、不安と——微かな安堵が同居していた。
*
広間に全員が集まった。
リュカが情報をまとめて報告する。教会の宣言は複数の経路で確認された。すでにいくつかの国が「聖女救出」への支持を表明している。教会は各地の聖騎士団にも動員をかけている。暖炉の火が揺れ、石壁に従者たちの影が大きく映っていた。薪が爆ぜる音だけが、報告の合間に響く。
「規模がでかいっすね。今までとは桁が違う」
リュカの声が硬い。尖った耳が緊張で伏せられている。
ヴェルナーが静かに補足する。銀縁の眼鏡が暖炉の光を反射した。
「外交文書はありません。交渉の余地を残す気がないということです」
従者たちの間に緊張が走った。マリカがフィルの手を握り、フィルが不安そうにリーリエを見た。フィルの大きな瞳が揺れている。小さな指が、マリカのエプロンの端をぎゅっと掴んでいた。
カインは広間の中央に立っていた。腕を組み、深紅の目が宙を睨んでいた。暖炉の炎が、黒い外套に赤い光を落としている。
「来るなら来い」
その声は低く、不敵だった。五百年を生きた者の重みがあった。
「この城は俺の領域だ。誰であろうと——踏み荒らすことは許さない」
従者たちの顔に、わずかな安堵が広がった。カインがいる限り——大丈夫だと。彼らは知っている。この男が五百年間、何度も世界の敵意を退けてきたことを。
けれどカインはふと言葉を切り、リーリエを見た。
リーリエは広間の隅で、両手を胸の前で握りしめていた。唇が白い。目が揺れている。左胸の紋章が、外套の下でかすかに脈打っている。聖女の紋章が結界の不安定を感じ取って、微かな白い光を漏らしていた。
カインが歩み寄った。声のトーンを下げて——リーリエだけに聞こえるように言った。
「心配するな」
大きな手が、リーリエの肩にそっと置かれた。
温かかった。戦場で剣を振るう手だ。数えきれない敵を退けてきた手だ。それなのに——リーリエの肩に触れた瞬間、その手は驚くほど穏やかだった。手のひらの重さが肩に馴染んで、じんわりと温もりが広がっていく。
リーリエは目を閉じた。カインの手の温もりを感じながら——「心配するな」という声を、胸の奥で反芻した。
心配するな。
その言葉を信じたかった。信じられるだけの——ここでの日々があった。
窓の外では、冬の夕日が沈みかけていた。空の端が深い紫に変わり始めている。最後の橙が山の稜線に溶けていく。明日から——魔王城は世界の敵になる。リーリエがいるこの場所が、世界中から糾弾される。
それでも——カインの手は、温かかった。




