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魔王は死にたがりの聖女を拾い、今日も溺愛で生かしにかかる  作者: 蒼月よる


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二人で見る空

 夕暮れだった。空が茜色から紫に移り変わり、遠くの山の稜線が黒いシルエットになっている。冬の夕暮れは早く、光が惜しいほどの速さで消えていく。


 防衛準備の一日が終わりに近づいていた。城の中は朝から慌ただしかった。従者たちが物資を運び、結界石の配置を確認し、城壁の補修に追われていた。ヴェルナーが冷静に指揮を執り、一つ一つの作業を確認し、不備があれば即座に修正を指示した。リュカは南の森の偵察から戻ったばかりで、厨房で大きな肉の塊を頬張りながら、フィルに「大丈夫だからな」と声をかけていた。


 マリカは黙って夕食の支度をしていた。いつもより——少し多めに。温かいものを。今夜は——温かいものが必要な夜だから。


 喧騒が一段落した頃。


 リーリエは城の東側の窓辺に立っていた。


 ここは——カインと初めて星を見た場所だった。フェアシュテルンの五つの星を教わった場所。「冬の女王は孤独だが、五つの星に囲まれている。一人じゃない」とカインが言った場所。リーリエが初めて——「ええ」と答えた場所。


 窓の外に、空が広がっている。夕日が沈みかけ、空は橙から紫へと変わりつつある。西の地平線が燃えるように赤い。冬の夕暮れは鮮やかだ。空気が澄んでいるから、色が深い。


 そして——遠くに。


 嵐雲が見えた。


 地平線の向こうに、黒い雲が立ち上がっている。低く、重く、ゆっくりと広がっている。冬の嵐が近づいている。自然の嵐。けれどそれだけではない。


 あの雲の下に——教会の軍勢がいる。二百を超える兵士が、この城を目指して行軍している。聖騎士団の精鋭。各国の援軍。大司教の命を受けた、「聖女救出」の軍勢。リーリエを——連れ戻すために。


 足音が聞こえた。重い、しかし静かな足音。石の廊下を歩く、聞き慣れた足音。


 カインだった。


 リーリエの隣に来た。何も言わずに。窓の外を見た。


 二人が並んで、嵐雲を見つめた。


 前にも——同じ構図があった。この窓辺で、並んで星を見た夜。あの夜、リーリエは何も言えなかった。「ありがとう」も「嬉しい」も「信じます」も。凍結した感情の中に、言葉が育っていなかった。ただ——「ええ」と答えた。カインの隣にいることを、拒まなかった。


 あの夜から——多くのことが変わった。


 二人の間にある感情は——全く別のものになっていた。


「……来るのですね」


 リーリエが呟いた。


「ああ」


 カインが答えた。


 短い言葉の交換。けれどその中に——共有された理解がある。言葉の少なさが、理解の深さを示している。説明は要らない。二人は同じ事実を知っている。同じ重荷を背負っている。


 嵐雲が——少しずつ近づいている。風が強くなった。リーリエの銀灰色の髪が風に流れ、カインの黒い外套の裾が揺れた。同じ風が、二人に触れている。


「怖いです」


 リーリエが言った。


 カインが振り向いた。


 リーリエの声は震えていなかった。静かな声だった。けれど——正直な声だった。飾りのない、嘘のない声。


 怖い。


 その言葉を——リーリエが口にしたのは、この物語の中で初めてだった。


 崖から身を投げたときも怖くなかった。教会の聖騎士が来たときも怖くなかった。結界が弱まったときも怖くなかった。——怖いという感情を認めることは、失いたくないものがあると認めることだから。死を望む者に恐怖はない。失うものがない者に怖いものはない。


 今のリーリエには——失いたくないものがある。花茶の匂い。星の名前。カインの笑顔。フィルの温もり。リュカの絵。マリカの涙。ヴェルナーの眼鏡の曇り。


 この城。この日々。この人たち。朝の花茶。マリカのスープ。フィルの笑顔。リュカの軽口。ヴェルナーの苦笑。リュカが描いた庭の絵。フィルが拾ってきた青い石。マリカが繕ってくれた服の裾。


 そして——隣にいるこの人。


 失いたくないから——怖い。


「でも——もう少しだけ、ここにいたい」


 リーリエが繰り返した。あの日と同じ言葉を。けれどあの日よりも——声に力があった。「もう少しだけ」が——「お願い」ではなく、「宣言」に近くなっている。


「ここにいたい。この場所に。この人たちと。あなたの——隣に」


 最後の言葉で——リーリエの声が、微かに揺れた。


 カインの手が動いた。


 リーリエの肩にそっと置かれた。大きな手。温かい手。五百年の戦場を生き延びた手が——今は、一人の少女の肩に、優しく触れている。


「いろ」


 カインの声は低かった。


「どこにも行かせない」


 揺るぎがなかった。嵐が来ても。教会が来ても。世界が敵になっても。


 どこにも行かせない。


 リーリエの目がカインを見上げた。薄い青紫の瞳が、深紅の瞳を捉えた。涙はなかった。代わりに——そこには微かな光があった。凍結の下に灯り始めた、小さな火。消えそうで消えない。風に揺れながら、それでも燃えている。


 生きたい——その言葉はまだ、リーリエの口からは出ない。まだ遠い。まだ早い。


 けれど「ここにいたい」は——言えた。


 二人は窓辺に並んで立っていた。嵐雲が近づいている。風が唸り始めている。冬の夕暮れが、空を暗く染めていく。星はまだ見えない。嵐雲がフェアシュテルンを隠している。


 けれどリーリエは知っている。雲の向こうに——星はある。見えなくても、消えたわけではない。


 嵐が来る。


 リーリエの左胸の紋章が微かに光っている。結界が弱まっている証。この光が消える日が来るのかもしれない。この命が尽きる日が。


 けれど今は——二人で同じ空を見ている。カインの手がリーリエの肩にある。温かい。重い。五百年分の決意が込められた手の重さ。リーリエはその重さを、嫌だとは思わなかった。


「怖いです」


 リーリエが呟いた。


「でも——もう少しだけ、ここにいたい」


 二度目の「もう少しだけ」。一度目は茶碗を握りしめながら。今度は窓辺に立ち、嵐雲を見つめながら。同じ言葉だが、重さが違う。教会の軍勢が迫っている。結界が裂けかけている。それでも——ここにいたい。


 カインが答えた。


「いろ。どこにも行かせない」


 その声は低く、静かで——揺るぎなかった。


 風が吹いた。冬の風が窓硝子を揺らし、リーリエの髪とカインの外套を同時に揺らした。同じ風が二人に触れている。同じ嵐が、二人に向かって来ている。


 あの崖の日から始まった全てが、ここで一つの境界を越えた。死にたがりの聖女が「ここにいたい」と言い、死なせたくない魔王が「行かせない」と答えた。


 嵐の前の、最後の静けさ。夕暮れの光が城壁を赤く染め、長い影が庭を横切っていた。


 それだけで——今は、十分だった。


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