戦争の足音
教会の大聖堂。
石の床が冷たい。この冷たさは、リーリエの記憶の中にある教会の冷たさと同じだ。どれほど装飾を施しても、根本にあるのは冷たい石だ。香の煙が天井に向かって昇り、甘い匂いが空間を満たしている。ステンドグラスの色が床に虹色の模様を落とし、歩くたびにその光の中を通り過ぎる。美しい。けれど美しさの裏に、リーリエは祭壇の冷たさを感じ取っていた。
白金の装飾が壁と天井を覆い、ステンドグラスから色とりどりの光が降り注いでいる。赤、青、金、紫——聖典の物語を描いた硝子が、午後の日差しを受けて祭壇を虹色に染めていた。
祈りの間と呼ばれるこの部屋は、教会で最も神聖な場所であり——最も冷たい場所でもあった。壁は厚く、窓は高く、音が響かない。密談に適した構造。設計者は——祈りと陰謀の両方を知っていたのだろう。
グレゴリウス・ヴァン・オルデンは、祭壇の前に立っていた。
白髪交じりの灰色の髪を後ろに撫でつけた、六十二歳の男。鋭い灰色の瞳。白金の法衣がステンドグラスの光を受けて微かに輝いている。胸の大司教の紋章が——冷たく光っていた。
「聖女救出作戦を——発動します」
背後に、聖騎士団の将官たちが整列していた。十数名。いずれも甲冑に身を包み、剣を佩いた歴戦の騎士。彼らの前で、大司教は振り返った。穏やかな表情。慈愛に満ちた微笑み。信徒の前で見せる顔と同じ——目だけが笑わない顔。
「聖騎士団の精鋭をもって、魔王の城から聖女を救出せよ。これは偵察でも交渉でもありません。正式な軍事作戦です」
将官たちが一斉に頭を下げた。甲冑が軋む音が大聖堂に響いた。ステンドグラスの光が甲冑の上を虹色に滑り、戦の準備をする者たちの上に聖なる光が降り注いでいる。
「聖騎士団長」
「はっ」
レオンハルトが一歩前に出た。砂色の短髪。琥珀の瞳。右頬の古い刀傷。背筋を伸ばし、大司教を真っ直ぐに見つめている。しかしその目に——迷いの影がある。見る者が見れば、気づく程度の。
「作戦の全権をあなたに委ねます。聖騎士団に加え、各国から動員される援軍の指揮も取りなさい。総勢二百。必要であれば追加の動員も認めます」
「……承知しました」
レオンハルトの返答に——一瞬の間があった。大司教はそれを見逃さなかったが、指摘しなかった。この騎士団長の忠誠心は本物だ。しかし——正義感も本物。それがいずれ、問題になるかもしれない。
将官たちが退出した。甲冑の金属音と足音が大聖堂に響き、やがて消えた。
大司教は一人、祭壇の前に残った。
「結界の弱体化は——加速しています」
独り言ではなかった。副官のエルマーが、柱の影から進み出た。地味な法衣を着た中年の男。大司教の影のような存在。
「南部の農業地帯で不作が三年続いています。北部の港町では海獣の出現が月に二度。東部の山岳地帯では地崩れが相次ぎ、集落が二つ壊滅しました。いずれも——結界の劣化と一致する現象です」
「被害は」
「まだ限定的です。しかし放置すれば——」
「わかっています」
大司教が遮った。声は穏やかだった。しかし——冷たかった。ステンドグラスから差す光が大司教の顔に色とりどりの模様を落としているが、その目だけは影に沈んでいる。祭壇の白百合の匂いが、甘く重く漂っていた。水の底のような冷たさ。
「聖女を炉に戻す。結界の出力を回復させる。それが最善です。それ以外の方法は——ない」
ないのだ。大司教はそう確信していた。五百年間、聖女を炉に送ることで世界は維持されてきた。他の方法など、存在しない。少なくとも——確実な方法は。「第三の道」などという不確実な賭けに、世界を預けるわけにはいかない。
エルマーが退出した。大司教は一人になった。
各国への書状は既に送ってある。「結界の維持には聖女の帰還が不可欠である」。「教会は世界の安全のために最善を尽くしている」。「魔王の脅威から聖女を救出することは、人類共通の義務である」。
巧みな文面だった。嘘は一つもない。結界が弱まっているのは事実。聖女の帰還が結界維持に必要なのも事実。ただ、語っていない事実がある。聖女が「帰還」すれば何が起きるか。「維持」の正体が何か。
それは語らない。語る必要がない。
大司教は祈りの間の窓辺に歩いた。外には教会の広場が広がっている。信徒たちが行き交い、子供たちが走り回り、商人が荷車を引いている。冬の日差しの下の、平穏な日常。
この日常を——守るために。
「世界のために」
大司教が呟いた。
「一人の犠牲で、万人が救われる。それが——最善だ」
その言葉に——一瞬だけ、苦悩が過った。
灰色の瞳が、微かに揺れた。唇が引き結ばれた。すぐに消えた。まるで感情を処理するのに慣れているかのように。何十年もかけて磨き上げた、感情の排除技術。
聖女の涙を——何度見ただろう。先代も。その前も。泣いて、祈って、恐れて——そして炉に送られた。その度に胸の中の何かが削られた。けれど削られた場所は、すぐに信念で埋められた。
世界のために。それが——大司教グレゴリウス・ヴァン・オルデンの信仰だった。
大聖堂の鐘が鳴った。午後の祈りの時間を告げる鐘。荘厳な音が、冬の空に響き渡った。
戦争が——始まろうとしていた。
大司教は祈りの間を出た。白金の扉が重い音を立てて閉まった。ステンドグラスの光が遮断され、廊下に出ると世俗の空気が戻ってくる。司祭たちが足早に行き交い、書類を運び、伝令を飛ばしている。大聖堂全体が、戦時体制に移行しつつあった。
廊下の壁に、歴代聖女の肖像画が並んでいる。十二人分。いずれも白い聖衣を纏い、穏やかな微笑みを浮かべている。——嘘だ。画家は聖女の本当の表情を知らない。苦痛に歪む顔を。涙で濡れた頬を。炉に向かう足取りの重さを。画家が描いたのは、教会が見せたい「聖女の姿」であって、聖女の真実ではない。
グレゴリウスはその前を通り過ぎた。目を向けなかった。見る必要はない。十二の顔は既に記憶に焼き付いている。
レオンハルトの背中が遠ざかっていく。聖騎士団長。正義感の塊。この男は——真実を知ったとき、どちらを選ぶだろうか。信仰か、正義か。
グレゴリウスは考えなかった。考える必要はない。レオンハルトが何を選ぼうと、計画は変わらない。聖女を取り戻し、炉に送る。結界を回復させる。それが——世界を守る唯一の道だ。
唯一の道だと——信じている。信じなければ、立っていられない。
執務室に戻り、重い扉を閉めた。蝶番が軋み、扉が閉まると同時に大聖堂の喧騒が遮断された。机の上に、リーリエの個人記録が裏返しに置かれている。グレゴリウスはそれに触れなかった。
窓の外で、鐘の余韻がまだ響いていた。




