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魔王は死にたがりの聖女を拾い、今日も溺愛で生かしにかかる  作者: 蒼月よる


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変わった朝

 翌朝。


 窓を開けると、冬の朝の澄んだ空気が頬を刺した。澄んだ冷気が肺を満たし、意識が一瞬で鮮明になる。庭に降りた霜がきらきらと朝日を反射し、地面一面が細かな硝子の粒に覆われたようだった。空は高く、雲一つない青さが広がっている。鳥が一羽、城壁の上を横切った。冬を越す鳥。寒さの中でも生きている鳥。その翼の影が、庭の霜の上を音もなく滑っていった。


 魔王城の日常は——何事もなかったように続いていた。あの夜の嵐が嘘のように、朝の光は穏やかだった。窓から差し込む光が、広間の木のテーブルに温かい模様を描いている。


 朝食の広間に、いつもの顔ぶれが揃っている。マリカが温かいスープを運び、パンの籠をテーブルの中央に置いた。リュカが欠伸をしながら椅子に座り、パンを千切っている。フィルが椅子の上で足をぶらぶらさせ、テーブルの上の果物に手を伸ばしている。


「フィル、食事の前に手を洗いなさい」


 マリカの声。優しいが、有無を言わせない調子。


「洗ったー」


「嘘です。ベリーの汁がついています。紫色の手で嘘をつかないでください」


「……これはさっき味見しただけ」


「それを手を洗っていないと言うのです」


 フィルが渋々椅子を降りて洗い場に走っていく。小さな角がテーブルの角にぶつかりそうになる。マリカが微笑んでその背を見送った。リュカが「相変わらずっすね」と笑い、自分のパンにバターを塗っている。


 扉が開いた。


 リーリエが入ってきた。


 銀灰色の髪が肩で揺れている。顔色は——まだ蒼白だった。眠れなかった夜と泣き疲れた朝の痕跡が、目元の隈に残っている。けれど足取りは確かだった。ふらついてはいない。


 カインが既に席についていた。花茶のカップを手に、窓の外を見ている。リーリエが入ってきたのに気づいて——振り向いた。


 リーリエは歩いて、カインの向かいの席に座った。


「おはようございます」


 カインの目を——見た。


 薄い青紫の瞳が、深紅の瞳を真っ直ぐに捉えている。


 いつもは視線が合わなかった。リーリエはカインの目を直視することを避ける傾向があった。目を合わせると感情が動く。感情が動くと防壁が揺らぐ。だから逸らしていた。胸元を見るか、顎の辺りを見るか。正面から目を見ることは——ほとんどなかった。


 今日は——真っ直ぐに見た。


 カインが——僅かに戸惑った。一瞬、目が泳いだ。すぐに戻したが、深紅の瞳の中に動揺が走った。リーリエはそれを見逃さなかった。


「ああ。おはよう」


 短い返答。いつも通り。けれど声が——ほんの少し、柔らかかった。普段の無愛想さに、微かな温度が混じっている。


 リュカが首を傾げた。パンを手に持ったまま、カインとリーリエを交互に見る。


「……なんか空気違くないっすか、今日」


 マリカがリュカの腕を軽く叩いた。「しっ」と目で制する。


 リュカのパンを持つ手が止まった。バターナイフが宙で固まっている。琥珀色の目が丸くなり、尖った耳がぴんと立った。


「えっ、何すか」


「いいから黙って食べなさい」


「何でっすか——あ、もしかして何かあった系っすか? 旦那様とお嬢の間で——」


「リュカ」


 マリカの声が一段低くなった。リュカは「はいすいません」と口を閉じ、パンを頬張った。


 マリカが微笑んだ。穏やかで、温かい微笑み。何があったかは聞かない。けれど——わかっている。この城の空気の変化を、マリカは誰よりも敏感に感じ取る。


「いいことがあったんですよ。きっと」


 小さく呟いた。リーリエの耳には届かないくらいの声で。


 フィルが戻ってきた。両手を高々と掲げて「洗った! 今度こそ!」と宣言する。


「よくできました、フィル」


 リーリエがフィルの頭を撫でた。フィルが嬉しそうに角を揺らし、リーリエの隣の椅子によじ登った。


 いつもの朝だった。マリカのスープは今日も温かい。リュカのパンの千切り方は相変わらず大雑把で、フィルの笑顔は太陽のように明るい。ヴェルナーが朝の報告書を持って顔を出し、「おはようございます」と丁寧に一礼して去っていった。


 何も変わっていない。


 けれど——何かが変わった。


 食事の後、リーリエは自室に戻った。椅子に座り、窓の外を見た。冬の青空。白い雲。庭でフィルが走り回っている。リュカが木の下で早速居眠りを始めている。


 何かが変わった。自分の中の——何かが。


 感情の凍結が完全に解けたわけではない。まだ凍っている場所はある。死にたい気持ちが消えたわけでもない。苦痛は続いている。世界の重荷は変わっていない。


 けれど——「感じること」への抵抗が、薄れた。


 カインの手の温もりを。マリカのスープの美味しさを。フィルの笑顔の温かさを。リュカの軽口の楽しさを。


 それらを「感じていい」のだと——初めて、自分に許可を出した気がする。


 聖女は感じてはいけないと思っていた。人柱は感情を持ってはいけないと。道具に心は不要だと。教会がそう教えたわけではない。リーリエ自身が——苦痛に耐えるために、そう決めた。感情を凍らせれば、痛みも薄まる。何も感じなければ、何も辛くない。


 けれど今日——カインの目を見て「おはようございます」と言ったとき。


 感じていい。この温かさを——受け取っていい。


 窓辺に手を置いた。ガラス越しに、冬の日差しが手を温める。


 小さな変化だった。外から見れば——リーリエがカインの目を見て話すようになった。それだけのこと。


 けれどマリカは気づいていた。リーリエのスープの飲み方が変わった。以前は義務的に口に運んでいたのが、今は一口ごとに味わっている。フィルの頭を撫でる手が、以前より柔らかくなった。リュカの軽口に対する返しが、以前より早くなった。微かな変化だが、毎日見ている人間には——はっきりとわかる。


 リュカも気づいていた。五十年仕えた主人の変化に。カインの表情が——微かに、ほんの微かに——柔らかくなっている。眉間の力が少し抜けた。声のトーンが僅かに上がった。リーリエに話しかけるときだけ。「お嬢に会ったら旦那様が別人になるの、割と気づいてるんすけどね」——リュカはマリカにだけ、そう言った。


 ヴェルナーは何も言わなかった。眼鏡を外し、丁寧にレンズを拭いた。レンズが少し曇っていた。この男がレンズを拭くのは、感情が揺れているときの癖だ。銀縁の眼鏡の奥で全てを見て、全てを記録し、全てを黙っていた。参謀の仕事は、観察することだ。


 けれどリーリエの内側では、氷の一枚が——確かに溶けていた。そして溶けた水が、新しい感情を運んできていた。まだ名前のつかない感情を。温かくて、少し怖くて、手放したくない何かを。


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