もう少しだけ
目が覚めた。瞼が重い。泣いた後の腫れぼったさが目の奥に残っている。鼻の奥がつんとして、息をするたびに胸の奥が微かに痛んだ。
自室のベッドだった。見慣れた天井が目に入る。毛布がかけられている。首元までしっかりと。肩が冷えないように丁寧に整えられている。暖炉に火が入っていて、部屋は温かい。赤い炎が壁に柔らかい影を落としている。リュカが入れてくれた暖炉だ。薪の組み方に癖がある。太い薪を下に敷き、細い薪を上に組む。長く燃えるように。一晩中、部屋を温め続けるように。
リーリエは暗い天井を見つめた。
光が入っている。窓から差し込む光の角度が高い。朝日ではない——もっと高い位置の光だ。昼に近い。ずいぶん長く眠っていたらしい。
昨夜のことを——思い出した。
全てが、一度に蘇る。カインの言葉。「最後の聖女」。「世界が終わる」。そして自分の感情が爆発したこと。泣いたこと。叫んだこと。カインの前で——あんな姿を見せたこと。
カインの胸に顔を埋めて、泣いた。外套を握りしめて、縋った。「どうすればいいんですか」と叫んだ。まるで子供のように。
頬が——熱くなった。
恥ずかしい。
リーリエは毛布を顔の半分まで引き上げた。頬が紅い。感情の凍結が崩壊して、「恥ずかしい」という感覚まで解凍されてしまった。二年間、こんな感情は味わっていなかった。
あんなに泣くつもりはなかった。あんなに叫ぶつもりはなかった。感情を見せることは——弱さだ。教会でそう学んだ。聖女は穏やかであれ。感情に左右されるな。崇高な犠牲として、静かに。
——馬鹿らしい。
その言葉が——自然に浮かんだ。
「崇高な犠牲」が馬鹿らしい。感情を見せることが弱さだという教えが馬鹿らしい。泣くことは弱さではない。あの涙は——二年間我慢し続けた、正当な涙だ。
そう思えたことに——リーリエ自身が驚いた。
毛布の中で、自分の手を見た。昨夜、カインの外套を掴んだ手。まだ指先が少し赤い。強く握りすぎたからだ。
カインが運んでくれたのだろう。ベッドに寝かせ、毛布をかけ、暖炉に火を入れて——。あの人が全部やってくれたのだ。
不思議な軽さがあった。身体が軽い。いつもの鈍痛は変わらない。聖女の紋章は今も微かに光り、全身に灼けるような痛みを送り続けている。けれど——心が、少しだけ軽い。泣いたから。溜め込んでいたものを、全部出したから。壺の水を全部こぼしたら、壺が軽くなるように。
ノックの音が聞こえた。
「起きたか」
カインの声。低い。ぶっきらぼうな。けれど——耳を澄ませば、微かな安堵が混じっている。昨夜から心配していたのだろう。もしかしたら、何度もこの扉の前を通りかかっていたのかもしれない。
「……はい」
リーリエは毛布から顔を出した。
扉が開き、カインが入ってきた。手に茶碗を持っている。花茶の香りがした。いつもの、あの香り。甘くて、仄かに苦い。
「飲め」
カインが茶碗を差し出した。何事もなかったかのように。昨夜の感情爆発も、涙も、抱きしめたことも——なかったかのように。いつもの朝と同じ顔で、同じ調子で、同じ温度の茶を。
それがカインなりの優しさだとわかった。
「昨夜は大丈夫だったか」と聞かない。「泣いてすっきりしたか」と聞かない。何事もなかったように振る舞うことで、リーリエの恥ずかしさを守っている。日常を——途切れさせないでいてくれている。
マリカの手が温かかった。リーリエの掌を両手で包むように握り、そっと力を込めている。指先から伝わる体温が、冷えた手の甲にゆっくりと沁みていく。
「……ありがとうございます」
茶碗を受け取った。両手で包む。温かい。花の香りが鼻先を擽る。一口飲んだ。いつもの味。いつもの温度。少し甘め。花弁が一枚多い。
温かさが——喉から胸に落ちていく。身体の芯が、じわりと温まる。涙が乾いた頬を、茶の蒸気が湿らせる。
窓の外を見た。空が青い。冬の、澄んだ青空。雲がいくつか、白く流れている。綺麗だ、と思った。純粋に。何の含意もなく。ただ——青い空が綺麗だと思った。
カインは部屋に残っていた。窓辺に寄りかかり、腕を組んで外を見ている。何も言わない。リーリエが茶を飲み終わるのを、ただ待っている。
沈黙が流れた。嫌な沈黙ではなかった。二人の間を、花茶の香りが漂っている。
「……もう少しだけ」
声が——出た。
自分でも驚いた。言おうと思って言ったのではない。胸の奥から、自然に溢れ出した言葉だった。
カインが振り向いた。深紅の瞳が——微かに見開かれた。
「もう少しだけ、ここにいたい」
リーリエは茶碗を見つめていた。カインの目を見る勇気は——まだなかった。茶碗の中の淡い琥珀色の液体を見ていた。
「答えは見つかっていません。何をすればいいかもわかりません。でも——もう少しだけ」
声が小さくなった。
「この場所に。この茶の時間に。——もう少しだけ」
カインが——しばらく黙っていた。
「ああ」
そしてカインが答えた。
「いろ。いつまでもいろ」
リーリエの「もう少しだけ」を——「いつまでも」に拡げた。控えめな願いを、全力で肯定した。
リーリエの指が——茶碗を握る力が、微かに強くなった。
泣かなかった。もう泣く必要はなかった。昨夜、全部出した。二年間溜め込んでいたものを、全部。壺は空になった。空の壺に、今——温かい茶が注がれている。
窓の外を見た。冬の青空。鳥が一羽、窓の前を横切った。小さな影が、光の中を滑っていく。
「もう少しだけ、ここにいたい」——その言葉を口にした自分に、驚いている。死にたがりの聖女が、初めて「いたい」と言った。「死にたい」ではなく「いたい」と。真逆の言葉だ。いつの間に——こんな言葉が出るようになったのだろう。
カインの茶のせいだ。施術の温もりのせいだ。リュカの軽口のせいだ。マリカのスープのせいだ。フィルの笑顔のせいだ。ヴェルナーの静かな配慮のせいだ。この城に住む全ての人の——温かさのせいだ。
カインが窓辺で腕を組んでいる。何も言わない。ただ、いる。それだけで——部屋の温度が違う。カインがいるだけで、空気が少しだけ温かい。
答えはまだ見つかっていない。「第三の道」も見えない。死ぬこともできず、生きることも苦しい。何も解決していない。
けれど——「もう少しだけ」と言えた。
窓の外で鳥が鳴いた。冬を越す鳥の、力強い澄んだ声。風が枝を揺らし、枯葉が舞った。それは——小さいが、確かな一歩だった。死にたがりの聖女が、初めて「続き」を望んだ。
ただ——温かい茶を飲んだ。最後の一口まで。




