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魔王は死にたがりの聖女を拾い、今日も溺愛で生かしにかかる  作者: 蒼月よる


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眠れる聖女

 リーリエが——眠っていた。


 蝋燭が残り少なく、書斎全体が薄暗い橙色に包まれている。カインの腕の中で、完全に力を失っている。泣き疲れて、怒り疲れて、感情を爆発させた後の身体は、限界を超えていた。規則的な寝息が、書斎の静寂に溶けている。


 起こしたくなかった。起こすことができなかった。


 この人は——いつ安らかに眠れたのだろう。教会では苦痛で眠れなかったはずだ。紋章の鈍痛は夜も休まない。魔王城に来てからも、施術の夜は痛みで目覚めていた。こうして——誰かの腕の中で、力を抜いて眠ることは、おそらく初めてだ。


 外套を握る指が、まだ離れていない。眠りの中でも——縋っている。


 カインは腕の角度を慎重に調整した。リーリエの首が不自然に曲がらないように。肩に負担がかからないように。動かすたびに、リーリエが微かに身じろぎする。けれど目覚めない。深い眠りの底にいる。


 長い時間が流れた。


 窓の外で月が傾いていく。蒼い月明かりが書斎の床に四角い光を落としている。その光の中に、二人の影が溶け合うように重なっていた。蝋燭は燃え尽きていた。月の光だけが、二人を照らしている。


 リーリエの呼吸がカインの胸に伝わってくる。規則的で、穏やかで、温かい。生きている証。この小さな命が、世界を背負わされている。この温もりが、結界の燃料にされている。その理不尽に、カインの奥歯が軋んだ。


 月が沈み、代わりに空の端が白み始めた。朝が近い。


 このまま朝を迎えるわけにはいかなかった。書斎の床は石だ。冷たい。長時間座っていれば身体が冷える。リーリエの身体は——もう十分に冷えている。これ以上は——危険だ。


 カインはリーリエを抱え上げた。


 片腕で背を支え、もう片腕で膝の裏を。立ち上がるとき、膝が軋んだ。何時間も床に座っていた身体が、重力に抗議している。しかしリーリエの重さは——抗議するほどのものではなかった。軽い。改めて、その軽さに胸が痛んだ。


 抱え上げた瞬間、リーリエの頭がカインの肩に寄りかかった。銀灰色の髪がカインの首筋に触れた。微かな花の香り——昨日の花茶の名残だろうか。くすぐったいような、切ないような。リーリエの吐息が鎖骨の辺りに当たる。温かい。この人は生きている。まだ——生きている。その当たり前のことが、今は途方もなく尊い。


 書斎を出た。


 廊下は暗い。夜明け前の薄い光だけが、石壁の窓から差し込んでいる。カインの足音だけが響く。一歩ごとに注意した。リーリエが揺れないように。リーリエの頭が壁にぶつからないように。石段を降りるときは、特に慎重に。


 途中、廊下の角で——気配を感じた。


 カインは足を止めなかった。止まればリーリエが揺れる。歩調を崩さず、視線だけを向けた。


 リュカだった。壁に寄りかかって腕を組んでいる。琥珀色の瞳が半分閉じかけている。眠そうな目をしているが——起きていた。待っていたのだ。何時間も、この廊下で。


 リュカは口を開きかけて——閉じた。


 カインの腕の中のリーリエを見た。泣き腫らした顔。乱れた髪。しかし——安らかな寝顔。


 リュカは何も言わなかった。ただ小さく頷いて、道を空けた。カインが通り過ぎるとき、リュカが囁いた。


「旦那様。お嬢の部屋、暖炉つけておきました」


「……ああ」


 それだけだった。リュカは何も聞かなかった。何があったかは——聞かなくてもわかっているのだろう。五十年の従者は、それくらいの察しがつく。


 リーリエの部屋に着いた。


 片手でリーリエを抱えたまま、扉を足で押し開けた。部屋は暖かかった。リュカの言った通り、暖炉に火が入っている。赤い炎が部屋を柔らかく照らしている。


 ベッドにリーリエを寝かせた。枕に頭を乗せ、銀灰色の髪が枕の上に扇のように広がる。掛け布団を引き上げる。リーリエの身体がベッドに沈む。小さな溜息が漏れた——眠りの中の、安堵の溜息。細い肩が一度だけ震え、すぐに力が抜けた。安心の証だ。


 カインは毛布の端を整えた。冷えないように。首元まで引き上げ、肩が出ないようにする。足元まで丁寧に。毛布の端がベッドの縁からはみ出さないように。些細な、しかし入念な作業。五百年生きた魔王が、十七歳の少女の毛布を整えている。滑稽と言えば滑稽だ。しかしカインの手に迷いはなかった。


 そして——動きが止まった。


 リーリエの寝顔を見ていた。


 起きているときの顔とは全く違った。凍結した感情の防壁がない。淡々とした表情も、虚ろな目も、感情を押し殺した笑みもない。ただ——年相応の少女の、無防備な寝顔があった。頬にまだ涙の跡が残っている。睫毛の先が僅かに濡れている。


 十七歳。まだ十七歳だ。この年の少女が——世界を背負わされている。


 カインの手が——自然に動いた。リーリエの髪に触れた。額にかかった銀灰色の前髪を、そっと横に流した。指で髪を梳いた。乱れた毛先を整えるように。


 髪を撫でる。ゆっくりと。繰り返し。


 脳裏に——別の記憶が重なった。五百年前。金色の髪を——同じように撫でた夜がある。あのときも暖炉の火が燃えていた。初代聖女が、炉に身を捧げる前夜。あの人も——泣いた後で眠りに落ちた。あのとき撫でた髪は金色で、今撫でている髪は銀灰色だ。


 しかし。


 今、触れているのは銀灰色の髪だ。金色ではない。記憶の中の人ではなく——目の前の、この人の髪だ。


「……すまない。もっと早く言うべきだった」


 呟いた。リーリエには聞こえていないだろう。


「だが言ったところで——俺に答えはなかった。方法が見つかっていなかった。見つからないまま、真実だけを押しつけるのが——正しかったのか。俺にはわからない」


 言い訳ではなかった。独白だった。自分自身への問いかけだった。


 リーリエの髪から手を離した。


 立ち上がり、部屋を出ようとした。扉に手をかけて——振り返った。


 もう一度、リーリエの寝顔を見た。暖炉の火に照らされた横顔。穏やかで、無防備で、年相応で。


 この顔を——守りたい。


 贖罪ではなく。世界のためではなく。この顔を——この無防備な寝顔を、守りたい。


 その想いが胸を突き上げた。不意に。激しく。カインは一瞬、呼吸を止めた。


 何だ、この感情は。


 五百年間、初代聖女を救えなかった悔恨が行動の全てを支えていた。贖罪。それが理由だった。リーリエを守るのも、結界を調べるのも、全ては「あの過ちを繰り返さないため」だった。


 今、胸の奥にあるものは——贖罪とは、少し違う。


 何が違うのかはわからない。わからないまま——カインは踵を返した。


 扉を閉めた。足音が廊下を遠ざかっていった。暖炉の火が、リーリエの寝顔を柔らかく照らし続けていた。


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