普通の人間に戻れたら
カインは書斎にいた。暖炉の火は燃え尽きていて、部屋は冷えている。吐く息が微かに白い。
昨夜から一睡もしていない。机の上には何も広げていない。文献も地図も巻物もない。ただ椅子に座り、窓の外を見ていた。空が白み、朝日が差し込み始めている。冬の朝の光は鋭い。目が痛いほどに白い。窓ガラスに結露が走り、光がそこで屈折して、机の上に虹のような模様を描いていた。美しい朝だった。その美しさが、かえって残酷だった。
リーリエは——来るだろうか。
昨夜、「一人にさせてください」と言って去ったリーリエ。あの背中を見送ることしかできなかった。追いかけたかった。「一人にしないでくれ」と言いたかった——それはカイン自身の願いだ。リーリエの願いではない。リーリエが一人になりたいと言ったなら、それを尊重するのが——五百年前にできなかったことだ。
あのとき。五百年前。初代聖女が一人になりたいと言ったとき、カインは追いかけた。追いかけて、引き止めて、「一人にするな」と掴みかかった。結果、彼女はカインの手を振り解いて——炉に向かった。追いかけることが、正しかったのかどうか。今でもわからない。追いかけなかったら——止められたのか。それもわからない。
だから今回は——待つ。
待つしかない。信じるしかない。リーリエが戻ってくると。あの子が一晩の闇を越えて、朝日の中に歩いてくると。
足音が聞こえた。
廊下から近づいてくる、軽い足音。リーリエの足音だ。何百回も聞いた足音。しかしいつもよりも——遅い。一歩一歩に間がある。重い。疲弊した足取り。一晩中眠れなかった人間の足取りだ。それでも——歩いている。止まっていない。ここに向かっている。
書斎の扉が、ゆっくりと開いた。
カインが振り向いた。
そして——息を呑んだ。
リーリエが立っていた。銀灰色の髪が乱れている。いつもは肩の上で揃えられた髪が、眠れなかった夜を物語るように崩れていた。毛先が絡み合い、左側だけが頬に貼りついている。頬が白い。いつも白いが、今日はさらに——血の気がない。唇の色すら薄い。紫がかった淡い色。体温が下がっているのだ。一晩、暖炉のない塔の部屋にいたから。
そして——目が。
リーリエの目が——涙で濡れていた。
薄い青紫の瞳が、水膜で覆われている。睫毛の先に雫が溜まっている。まだ頬を伝ってはいない。溢れる寸前で、辛うじて堪えている。けれど——堪えきれていない。下まぶたの縁に、光る一筋が走っている。
カインは立ち上がった。椅子が床を擦る音がした。朝の静寂を裂く、乾いた音。
百話近い物語の間——リーリエは泣かなかった。崖で拾われたときも。聖女=人柱の真実を知ったときも。結界が弱まり身体に負担がかかったときも。紋章の痛みで夜中に目覚めたときも。一度も——涙を見せなかった。
泣かないことが——この子の防壁だった。泣けば壊れる。壊れたら戻れない。だから泣かなかった。感情を凍結させ、涙の回路を閉じて、二年間を生き延びてきた。
それが——今。
「なぜ——」
リーリエの声が震えた。唇が震えている。拳が——握りしめられている。白い指が赤くなるほど強く。爪が掌に食い込んでいる。掌に、赤い半月形の痕がつくほど。
「なぜ——教えてくれなかったんですか」
声が——割れた。
いつもの平坦な声ではなかった。敬体の形は保っている。「ですか」の形は崩れていない。しかし声の底に——怒りがある。悲しみがある。裏切られた痛みがある。信頼していた人に隠されていたという、深い傷がある。声が高くなり、低くなり、安定しない。感情の凍結が崩壊して、声の制御が効かなくなっている。
カインは一歩も動かなかった。
「最初から——知っていたのでしょう」
リーリエが一歩、部屋に踏み込んだ。足元が覚束ない。一晩中眠れなかった身体が、それでもここまで歩いてきた。あの塔の部屋から、階段を降り、廊下を歩き、書斎の前まで。寒さと疲労と感情の嵐に晒された身体を引きずって。
「私が最後の聖女だと。私が死ねば世界が終わると。崖で私を拾ったときから——ずっと、知っていたのでしょう」
「ああ」
カインが答えた。一語。弁解しない。言い訳の言葉は無数にある。「守りたかった」「傷つけたくなかった」「まだ早いと思った」——どれも事実だ。けれど今ここでは、全てが弁解に過ぎない。
「なぜ——隠していたのですか」
リーリエがもう一歩近づいた。涙が——ついに頬を伝った。一筋。銀色の光のように、白い頬を滑り落ちていく。朝日を受けて、涙が光った。宝石のように——残酷なほど美しく。
「私は——私の命のことなのに」
声が震える。抑えようとしている。感情を押し殺そうとしている。けれど——押し殺せない。凍結の防壁が昨夜のうちに崩壊して、溢れ出した感情が止められない。堤防が決壊した川のように。二年分の水が、一度に流れ出している。
「知る権利が——あったのではないですか」
涙が止まらない。一筋が二筋になり、三筋になる。頬を伝い、顎を伝い、床に落ちる。石の床に、小さな染みを作る。水滴が落ちるたびに、微かな音がした。ぱたり。ぱたり。その音が、朝の書斎に響いている。
「私の命がどう使われるか。私が死んだら何が起きるか。それを——私が知らないまま——あなたたちだけが知っているのは——」
言葉が途切れた。嗚咽が漏れた。声を殺そうとして、殺しきれない。手で口を押さえたが、指の隙間から声が漏れた。
カインは——黙っていた。
何も言わなかった。弁解しなかった。「守りたかった」とも「傷つけたくなかった」とも。それは事実だ。けれど今ここでは——弁解に過ぎない。リーリエが求めているのは弁解ではない。
ただ——立っていた。リーリエの涙を、真正面から受け止めて。逸らさずに。逃げずに。深紅の瞳が、微動だにせずリーリエを見つめている。この涙の一滴一滴を、全て受け止めるという覚悟が、その眼差しにあった。
「……すまない」
一言だけ。
低い声。静かな声。しかしその一語に——全ての後悔が込められていた。五百年前に初代聖女に言えなかった「すまない」と、今日までリーリエに隠し続けた「すまない」が——重なっていた。二つの時代の後悔が、一つの言葉に凝縮されていた。
リーリエの涙が——止まらなかった。
けれどその涙の中に、怒りだけではない何かが混じっていた。「隠していた」という裏切りへの怒り。同時に——「隠さなければならないほど重い真実を、この人は一人で背負っていた」という理解。その二つが混ざり合って、涙を複雑な色にしている。
凍結した感情が、完全に決壊した瞬間だった。




